2013/06/01

沖縄に戻った7つの理由

プロフィールにも書いてあるが、進学で1986年に沖縄を離れ、そのまま就職し、2001年に沖縄に戻ってきた。
その当時の人生の半分ほどを沖縄外で暮らしたわけだが、戻った理由は一つではなく、幾つかの要因が異なる方向から押し寄せてきて、あるタイミングで背中を押された感じがする。
干支も一回りしたので、覚えている内に書いてみようと思う。
もちろん、第一の想定読者は未来の自分とそれを語るべき家族だったりするので、一般化できるわけでもないが、決断に至った事情、背景が伝われば御の字である(実はすでに損得がイヤだったという感情を忘れつつある)。

1. 子供が生まれた
2000年に1号(♂13才)が生まれた。 切迫流産、切迫早産を経て、お腹の中で年が越せるかというのが我が家の2000年問題であった。私の素敵な奥様はある日を境に仕事にも行けなくなり外出も制限されていたので、とても大変だったと思う。
その1号は2000年問題をクリアしたと思ったら、出産予定日を間近に控えた1月後半のある金曜日、産婦人科の検診で、子どもの心拍数が弱くなっているから明日再検査して、変わりがないようなら帝王切開するね、と言われて帰宅すると、その晩遅くに1号は陣痛を仕掛けて、明朝無事生まれてくるというなかなかドラマティックな演出をしてくれた。
この子が、真っ裸で生まれてきて(当然か)、五体満足なのはよかったが、親というものがいないと、この子は簡単に死ぬのだなと思った。この子をここ東京で育てていくのか、と立ち止まって考えてみたことから、帰沖への具体的な検討が始まる。

2. 老後は暮らせないと思った
何人子供を持つか分からないが、そのうちみんな巣立っていき、夫婦二人だけでどうやって暮らしていいのか想像できなかった。奥様では不足ということではなく、二人で孤立するのでは、という感覚。みんな違って当たり前というより、みんな同じで当たり前、を強制されるような疎外感を感じていた。
当時は気付いていなかったが、合わせるのはストレスだった。
また、私の素敵な奥様が1号をお腹に抱えていたころ、JR中野駅でお腹が痛くて歩けず、うずくまっていたとき、北口のタクシー乗り場でタクシーを捕まえようとしたのだが、つぎつぎに乗り場のちょっと先でタクシーを捕まえる人達がいて私たちのところまで空車が来なかった。10分ほど奮闘してやっと捕まえることができたが、いつまでもこうして闘わなくてはならないのかと思った。

3. 少人数の会社で働いた
1996年にトレイニーとして香港へ異動になった(研修生だが、実質は最下層労働派遣ともいう)。
赴任先は、社長と現地人秘書、本社からの転勤出向者が3名に私を加えて6名の小所帯の会社である。
1か月後には中国(シンセンや広州)へ一人バス出張に行かされた。不安はあったが、なんとかなるもんだ。
小さな会社では、仕事の全体像がよく見えるし、一人で何もかもしないといけないし、 とにかく刺激的であった。
(私をトレイニーに推薦した誰だかわからない人に感謝したい)
大会社の歯車の歯であるよりは、せめて小さい会社でもいいから歯車程度にはなりたいものだと思い始めた。
沖縄に戻ってきた後、前の会社はそれなりに名の知れた会社だったので、辞めたことに対し友人の奥さんから「もったいない」と言われたが、私の人生の羅針盤はそこに針は指さないんだよな。どの会社で働く、ではなく、何をするかが重要であって、我慢を続けるより充実した時間を過ごす方が大事に思う。
それに社は会社が生き延びるためには何でもするもんだし、会社に何かを期待するのは間違いの元であるし。

4. 35才が目前だった。
当時は、転職には35才が一応の目安とされていたから(もしかして今も?)。
実績ではなく年齢で線引きするのもどうかと思うが、こっちがそう思っていなくても雇う方はどう考えているかわからない。実際、50才手前でもルータ設定バリバリの現役の方が職場にいるし、仕事は年齢より能力の問題かと思う。
とにかく、時間的なチャンスはあまりないと考えていた。

5. そのうち関東方面に大地震が来ると思った
今住んでいる人たちには申し訳ないが、これは本当にそう思ったし、今でも思っている。
最後に住んでいた中野は大きな被害はなさそうだが、中野から出ないというわけにもいかないので。
とはいえ、東京がダメになると、沖縄への経済的な波及も大きいとは思う(それでもなんとかする時間的猶予はある)。

6. インターネットが本格的になってきた
インターネットが充実し始めて、時間と場所を問わなくなってきた。
もちろん、直接会ったり見たりしないとわからないものも結構あるけど、情報格差はかなり埋められると感じた。
転職に際しては、メールのやり取り中心だったが、2度ほど自腹(当然)で担当の人に話を聞きにいったりもした。

7. 結局はなんだかんだと沖縄に関わってきた
最初に就職したころ、一人の時間が結構あったので三線を弾き始めたり、それが縁でエイサーと活動を共にしたり。
仕事を通して沖縄の役に立てればいいなと思っていた。
香港にいるころイギリス人の英語の先生に、友人から送られてきた渡嘉敷島のビーチの写真(白浜とサンゴ礁とエメラルドグリーンと紺青の海)を見せると、なぜ君がオキナワ、オキナワと言うのかわかったよ、なんてことを言われて、そんなに言っていたのか、と気づかされたことを覚えている。

(ここからは付け足し)
  • うまいこと転職先が見つかってラッキーではあった。沖縄での生活は仕事探しが最初の壁だと思う。
  • 正直言うと、転職して、給料は減るし(交渉はしたが受け入れられず年収35%減となったが今年ようやく当時の水準に達しそう)、沖縄は小さいぞ、という東京視点だったので、気分は都落ちで、ボロ家から再出発だな、くらいに考えていた。
  • 東京で損得をまず考える風潮に嫌気がさしていたのも事実。人生の収支決算って死ぬ間際までわからないんじゃないの? しかし、損得についての思いは忘れつつある。
  • 東京時代は結局のところ、地に足がついていなかっただけの可能性もある。
  • 建築は好きだったので、いつかはお仕着せの賃貸でもなく、買うわけでもなく、家を「建てて」みたかったというのもある。でも、これは言葉にしたこともなく、ふわっとした夢に近い状態だった。
沖縄に戻ってきて12年経ったが、自分自身の家族ができたことによる内面の変化が大きくて、あの時の気持ちに立ち返るのは難しくなりつつある。

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