2009/01/26

ライフハック - 階段を見上げよう

目標にたどり着くのが困難に感じたり、反対に楽をしようと一気飛びしたくなったときのライフハック(第6弾)。
階段を見上げよう
階段を見上げると上の階へ上るには1ステップずつ上るしかないことがイヤでも分かる。でも一歩踏み出せば、足や体に重力を感じつつ、着実に上の階へ近づいていることを体感できるだろう。
物事を達成するには同じように少々のストレスと引き替えは避けられない。
ただし、立ち止まったり降りたりするのは自由だし、降りるのは上るより簡単に思える。滑ったり転げ落ちたら早く降りられるが、怪我をしないように降りるのは慎重を要する。

画像はWikimedia Commonsから、ミャンマーのポパ山

窮鼠猫を噛む

立場的に上位の者が下位の者に究極の選択を迫り、服従を強いると「窮鼠猫を噛む」状況に発展しかねない。

服従では禍根を残す。
意に沿った行動に自ら出るよう促さないといけない。
追い詰めてはいけない。
究極の選択を強いる場合は感情的になっていないか自問する必要がある。
化学変化に時間が必要なように、考えを変えてもらうためにはそれなりの時間を与えることが必要だ。

手痛いしっぺ返しを直後に食らうのはまだ分かる。
いったん収まっているかのように見えて遙か将来へのしっぺ返しの種まきとなる場合がある。

画像はWikimedia Commonsから、猫の道路標識(標識の意図は不明)。

2009/01/23

「ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉」ポールオースター著と万年筆

米国、一般の人々からの「作り話のような実話」や「とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験」をまとめた本。

同書を読んでいると
第二次大戦が終わった翌年、私は占領軍の一員として沖縄にいた。
という文から始まる「縞の万年筆」という稿にぶち当たった。
おおっ、と思って読み進めていくと、そういえばこれを新聞で読んだことがあるぞと、記憶を辿るように検索エンジンに願いを託すと、琉球新報と沖縄タイムスがヒットした。
沖縄ではこういう沖縄戦にまつわる人捜しの話は結構新聞に載っている。人生も終盤にかかると(または過去を振り返る余裕ができると)、心に引っかかっていることを何とかしたくなるのだろうなぁ。

琉球新報の写真にある女性が抱えている本はこちら(右)のようだ。

2009/01/22

「『アメとムチ』の構図」渡辺豪著

仲間とスタジアムのようなところで待ち合わせ。直前に組織の罠だと気づき、ばれないように客席に回り込む。仲間に見つかったらおしまいだ。隠れて様子を伺っていると猫のようだな、とちらっと思う。どうか見つかりませんようにと思ったところで仲間と目が合ってしまう。このまま組織に捕まって後は殺される運命だと思うとものすごい不安と空虚な気持ちになったところで目が覚めた。不安な気持ちを引きづりつつ、安堵感が一気に押し寄せる。

サブタイトルは「普天間移設の内幕」
画像はないようで、出版元の沖縄タイムスは写真の無断転載禁止と謳っているのでやむを得なし。

普天間飛行場の沖縄・名護市辺野古地区への移設問題を防衛庁(当時)をはじめとした、政府側と、沖縄県、名護市、名護市周辺の町村、それに米国との駆け引きを内幕から描いている。
まさしく、アメとムチ。登場人物達の権謀術数の限り。
資料も充実しており、佐藤優風に表現すると、普天間移設問題に関わる国と県と市町村の内在的論理を知るには格好の本。

防衛庁事務次官守屋(当時)の暗躍ぶりが克明に記録されている。

機能拡張ともいうべきV字形案で政府と合意し(沖縄県は合意していない)、その後、防衛庁とのパイプが外れた後は沖合への移動を主張する現名護市長島袋の判断は理解に苦しむが、飛行ルートが集落上空を回避できればそれでよく、前市長岸本の「できるだけコンパクト」に目を背けたのは、空港の民間利用が念頭にあるのではないか(無理だろう、それは)。建設業界出身の島袋市長の対応が混迷に輪を掛けている。

小泉政権以降、政府の対応がドライになったとの指摘は、先のポストの県立病院独法化問題とも重なり、なるほどと思う。

本書にもあるように米国、日本政府、沖縄県の3者の構図を描いてみると、結局は移転しても移転できなくても懐は少しも痛まない米国の一人勝ちのようだ。

読んでいて、かなり違和感を感じたのは守屋も那覇防衛施設局長佐藤(当時)も、沖縄の戦後に終止符を打つつもりで普天間移設問題に関わってきたとの記述。「県内に移設」したら沖縄の戦後が終わるのか?
ここ沖縄では、先日も糸満市で不発弾が爆発し負傷者が出ている。

惜しむらくは「普天間飛行場代替施設案」の名称が、従来案、浅瀬案、沿岸案、L字案、沖合案、V字形案、など多くが提示されているにもかかわらず「普天間飛行場代替施設の位置」と称されたページには4案しかない。L字案は沿岸案なのかな。このページをもう少し拡充して、カヌチャホテルを含めた周辺の地図、普天間飛行場を含む、在沖縄の米軍施設の地図があれば、なおよいと思う。

詳細はさておき、読後の感想は、現那覇市長翁長のこの言葉に集約される。
「いつまでたっても私たちは外から与えられた基地という環境の中で、イデオロギーがどうのこうのと県民同士が闘い合って、自身で切り開くことができず巨大な権力の前で右往左往しながらやっている。県民どうしがけんかさせられている状況を早く脱したい」
基地は奪われた土地の上のものであって、与えられたものではないと思うし、建設反対派への批判も込められているが、「けんかさせられている状況を早く脱」すべきだとは思う。
# そう言う翁長市長も与党候補の選挙応援に際し敵対候補の悪口を言わないことが肝要だ。市政のリーダとしての資質を疑われてもおかしくない。数年前のことでも市民は覚えている。


話を冒頭に戻す。
夢から覚めて間もなく横を見ると左の腕に2号(♀4才)の両足が乗っている。寝るときの頭の位置は私と同じだったはずなのに、いつの間にか2号が寝相悪く180度回転している。こちらは180度回転した上に足まで乗せられることに合意した覚えはない。合意しなくても実力行使である。寝る前には想像するはずもなかったが、ともかく、足の重みで腕が痺れて変な夢を見たようだ。

悪夢は目が覚めればそれで終わりであるけれど、現実は夢とはほど遠く、例え現実から目を背けてもそこにはまた別の現実がある。結局現実は「自力」で道を切り開くしか無いだろう。

2009/01/20

県立病院の独立法人化問題(備忘録)

沖縄県では県立病院の独立法人化が議論されて久しい。
備忘録代わりに書く。

独法化は次のような構図(1->2->3)のようである。

1. 「経済財政改革の基本方針2007」(平成19年6月19日閣議決定) (pdf)
 第3章 21世紀型行財政システムの構築
  1.歳出・歳入一体改革の実現
   (2)社会保障改革
    ③公立病院改革
総務省は、平成19年内に各自治体に対しガイドラインを示し、経営指標に関する数値目標を設定した改革プランを策定するよう促す。
2. ガイドライン策定 総務省の公立病院改革ガイドライン
 「公立病院改革ガイドライン」(平成19年12月24日付総務省自治財政局長通知)を策定し、病院事業を設置する地方公共団体に対して平成20年度内に改革プランを策定し、経営改革に取り組むよう要請しました。
3. 沖縄県が県立病院を対象にあり方を検討

 第1回 沖縄県医療審議会県立病院のあり方検討部会 (pdf)
  資 料2−1 県立病院のあり方検討について (pdf)
□経営悪化と危機的な資金繰りの状況
□病院事業に対する繰入金の増加
□県内民間医療機関の充実
□公立病院改革ガイドライン(総務省)
画像は、総務省主催の公立病院改革懇談会の第1回会合(平成19年7月23日開催)配付資料 (pdf)より。
国は、病床数で15%程度である自治体病院に、僻地医療(シェア約72%)や救命救急センター(シェア約39%)などの高コスト医療を依存しているにもかかわらず、私的病院と同等の経営を求めていることが読み取れる。

「民で出来るものは民で」というのは簡単だが、民とは儲けることである。儲けがないこところには手を出さないか、別の方法で回収することが根本であり、儲からない分野、回収できない分野には手を出さない。
新たな医師臨床研修制度で医師不足を招き、診療報酬改定で儲かる患者儲からない患者をますますはっきりさせてきた厚生労働省は役に立ちそうにもない(病院経営が総務省に、収入・支出は厚生労働省に縛られているのはおかしくない?)。
沖縄県に金がないのも分かった。県のお役所仕事的足枷から逃れるためには独立法人化は必要かも知れない。
ただ、国の考えが、医療・福祉の充実よりも財政再建に重心が傾いていることから、セーフティネットとしての公的医療が崩れていくのではないかと危惧する。
大局観的には、ちょっとまずいんじゃないか。
県立病院のあり方、よりも先に、国のあり方、に問題があるのではないか。

2009/01/09

「自壊する帝国」佐藤優著

あわせて読みたい「国家の罠」。文庫本がお勧め。理由は後述。画像ははてなのキーワードへリンク。

「国家の罠」が存外に面白かったので続いて購入。2008年10月頃の発売直後。

本書は、ソ連崩壊前後のロシアの政治家や官僚に焦点を絞り、時には自分自身を含めた人間たちの生き様を描いている。イギリスでの研修時代を皮切りとして、主にソ連(ロシア、ラトビア)での体験をベースに政治を軸に宗教を衣にして、時代を行きつ戻りつしながら物語は展開していく。
政治と宗教だ。これで野球の話が加わったら、会話のタブー三題噺ではないか。一体誰とこの本の話をすればいいのか。

政治は生存競争と駆け引きであり、勝ったものが権力と金(もしくは好待遇)を手に入れる。宗教には常に人間くささがつきまとい、宗教組織は結局は政治の世界と何ら変わらない。そのことが全体を通してぼんやりと見えてくる。
また、国家には国民を団結させるためのある種の神話(国教)が必要だとも考えている節がある。ポローシンとの会話(p.303)でポローシンが語ったように描かれており、それはそれで事実だとは思うが、実は著者の主張の一つではないだろうか。

インテリジェンスと呼ぶ情報収集、情報戦略のため、生活を犠牲にし(奥様はないがしろ)、肝臓に負担を掛け(ウオトカ痛飲だが酒は強い)、絶え間なく続く接待(嫌いな人でもお近づきの印に)、秘書や電話交換技師、ホテルスタッフへのこまめな配慮(何かあったら教えてね)を行っていく。
特異なのは、イリインやブルブリスなどの中枢にいた政治家たちが著者を非常に気に入ったこと。著者の宗教に対する知識、ロシア的思考、ウオトカの飲みっぷり、外交官としての立場をわきまえた立ち居振る舞いだけでなく、著者との会話で滲み出る知性に惹かれたのだろうか。逆に著者はモスクワ大学で知り合うサーシャと呼ぶロシア青年の知性に惹かれていき、大きな影響を受けたようだ。

少し脚色を感じる部分もあるがそれは著者の主張であろう。
例えば、「黒い大佐」ことヴィクトル・アルクスニスと交わした会話の中で、著者の両親の戦争体験を語っていたが、外国人相手の会話の中であれだけの文を喋りながら、相手がそれを十分に理解できたとは思えない。よってかなりの補完が入っているはずだ。ちなみに著者の母親は沖縄出身(久米島)だ。

登場人物、例えば、サーシャ、ポローシン、シュベード、アルクスニス、イリイン、ブルブリスは実在する/したのであり、Googleで検索してみたくなるほどだ。「ポローシン」で検索すると本書ばかりがヒットする。人名に英語表記、ロシア語表記があれば検索の手がかりとなり追従体験できるのでなおよかったと思う。

2冊とも面白い本であった。
「自壊する帝国」の方が好みだが、「国家の罠」のドキュメンタリー性も迫力がある。双方を読んでいると相互の面白さが増す。
しかし、「国家の罠」でも同じだが、文庫本の「文庫版あとがき」のボリュームはいったいどういう事だ。本書では更にボリュームアップして1章分にあたる量を追記している(77ページに上る)。文庫本が出た今となっては単行本を買う理由はほとんど無い、と言ってもいい。

著者の昨今の活躍ぶりは目に余る、違う、目も当てられない、これも違う、えーと、そうそう、目を奪うほどのものだ。ただ、例えば「国家と神とマルクス」など対談ベースの思想の交換をテーマにした本は個人的にあまり興味を引かれない。立ち読み程度での確認なので何とも言えないが、体験をベースに書き下ろした本が面白く感じる。

早く裁判が終わり著者の出国が認められ、登場人物達と再会が果たせることを願う。
その物語を読んでみたい。

著者の知性は外務省のという籠を飛び出し(まだ辞めてはいないが)、野に放たれた。これは喜んでいいことではないだろうか。

2009/01/07

「国家の罠」佐藤優著

あわせて読みたい「自壊する帝国」。文庫本がお勧め。理由は後述。画像ははてなのキーワードへリンク。

本屋で手にとって、たまたま目にした著者と検事のやりとりの場面が面白かったので購入。2008年9月頃。
こんな場面だ(p.284~p.286)。
 大森弁護士の予測通り、その晩から西村氏は攻勢に出てきた。
(中略)
部屋の電気が消えていて、机の上のノート型パソコンの灯りしかない。嫌な感じだ。西村氏が強圧的に怒鳴り上げる。
(中略)
「この話はこっち(検察庁)が汚くしているわけじゃないんだぜ。勝手に汚くなっているんだぜ。あーぁ、汚くなってきた。あんたも胸張れるような話じゃなくなってくるからな。揺さぶれば何でも出てくるぞ」
「あっ、そう」
西村氏が調室の電気をつけ、今度はにこやかに、「今日はこれくらいにしましょう。よく考えておいてください。それではまた明日」と猫撫で声で取り調べを終えた。
 実に不愉快だ。私は独房に戻ってから憤慨した。こういうことならば、黙秘よりも戦術をエスカレートさせて、独房に籠もって取り調べ自体を拒否するという手もある。裸になって全身に糞を塗りたくってもよい。しかし、西村氏が大声を出すというのは、決して検察の強さではない。とにかくゆっくり寝ることにした。そして検察が私についてどの程度データを摑んでいるのか、これまでの検察官からの質問を反芻して分析してみた。
情報分析官としての面目躍如であり、この場面だけではなく、外部からの情報が少ない独房にいながら、数少ないニュースや弁護士との接見を通して感情に押し流されそうな場面でもそれを抑え冷静な態度で情報を分析、判断していく様が伺える。と同時に、自己保身に走らず、この「国策捜査」を歴史に残すんだという強い信念、それを遂行する行動力に驚かされる。クリスチャンであるというキリスト教のバックボーンも大きいのだろう。

この本は一種のドキュメンタリーであり、前半は「国策捜査」となった背景の説明を、後半は獄中での検事とのやりとりを中心に裁判に至るまでを記述する。特に後半の検事との敵味方を超えた交流は相互の立場をギリギリ超えることなく著者の強い信念と検事の仕事へのかたくなまでの熱心さとが共鳴している様が描き出されている。また、「文庫版あとがき」では本書の最大の功労者と挙げ、人事上の不利益がないよう、検察庁を牽制しているところからも検事への尊敬の意が汲み取れる。

過去の独裁者達がそうして敵対者を排除してきたように犯罪はその気になれば作られるものであることがよく分かる。ただ、鈴木宗男を対象の中心とした「国策捜査」の開始と突然の終了の指示が一体どこから出たのかは解明されていない。そういうときは「誰が一番得をしたか」を考えるべきである。
著者は鈴木宗男とあまりにも密接になりすぎたから逮捕されたとも言える。では北方領土交渉でイニシアチブを発揮した鈴木宗男を排除したかった人物は誰だ? 当時の小泉首相か? 田中眞紀子との確執を報じたマスメディアか? それとも表には出てこない誰かか? 回り回って国民ということにならないだろうか?

文庫版あとがきは30ページに上る。その後の経緯や描ききれなかった背景、また全体の構成を考慮して削除したであろう著者の思いについても詳しく述べている。今更単行本は不要ではないか。

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