本屋で手にとって、たまたま目にした著者と検事のやりとりの場面が面白かったので購入。2008年9月頃。
こんな場面だ(p.284~p.286)。
大森弁護士の予測通り、その晩から西村氏は攻勢に出てきた。情報分析官としての面目躍如であり、この場面だけではなく、外部からの情報が少ない独房にいながら、数少ないニュースや弁護士との接見を通して感情に押し流されそうな場面でもそれを抑え冷静な態度で情報を分析、判断していく様が伺える。と同時に、自己保身に走らず、この「国策捜査」を歴史に残すんだという強い信念、それを遂行する行動力に驚かされる。クリスチャンであるというキリスト教のバックボーンも大きいのだろう。
(中略)
部屋の電気が消えていて、机の上のノート型パソコンの灯りしかない。嫌な感じだ。西村氏が強圧的に怒鳴り上げる。
(中略)
「この話はこっち(検察庁)が汚くしているわけじゃないんだぜ。勝手に汚くなっているんだぜ。あーぁ、汚くなってきた。あんたも胸張れるような話じゃなくなってくるからな。揺さぶれば何でも出てくるぞ」
「あっ、そう」
西村氏が調室の電気をつけ、今度はにこやかに、「今日はこれくらいにしましょう。よく考えておいてください。それではまた明日」と猫撫で声で取り調べを終えた。
実に不愉快だ。私は独房に戻ってから憤慨した。こういうことならば、黙秘よりも戦術をエスカレートさせて、独房に籠もって取り調べ自体を拒否するという手もある。裸になって全身に糞を塗りたくってもよい。しかし、西村氏が大声を出すというのは、決して検察の強さではない。とにかくゆっくり寝ることにした。そして検察が私についてどの程度データを摑んでいるのか、これまでの検察官からの質問を反芻して分析してみた。
この本は一種のドキュメンタリーであり、前半は「国策捜査」となった背景の説明を、後半は獄中での検事とのやりとりを中心に裁判に至るまでを記述する。特に後半の検事との敵味方を超えた交流は相互の立場をギリギリ超えることなく著者の強い信念と検事の仕事へのかたくなまでの熱心さとが共鳴している様が描き出されている。また、「文庫版あとがき」では本書の最大の功労者と挙げ、人事上の不利益がないよう、検察庁を牽制しているところからも検事への尊敬の意が汲み取れる。
過去の独裁者達がそうして敵対者を排除してきたように犯罪はその気になれば作られるものであることがよく分かる。ただ、鈴木宗男を対象の中心とした「国策捜査」の開始と突然の終了の指示が一体どこから出たのかは解明されていない。そういうときは「誰が一番得をしたか」を考えるべきである。
著者は鈴木宗男とあまりにも密接になりすぎたから逮捕されたとも言える。では北方領土交渉でイニシアチブを発揮した鈴木宗男を排除したかった人物は誰だ? 当時の小泉首相か? 田中眞紀子との確執を報じたマスメディアか? それとも表には出てこない誰かか? 回り回って国民ということにならないだろうか?
文庫版あとがきは30ページに上る。その後の経緯や描ききれなかった背景、また全体の構成を考慮して削除したであろう著者の思いについても詳しく述べている。今更単行本は不要ではないか。
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