2013/06/28

「世界はひとつの教室」サルマン・カーン著、三木俊哉訳

うちの息子である1号(♂13才)は学習障害っぽいところがあって、つまり、字を書くのが苦手とか、漢字を覚えるのが苦手(読めるけどよく書き間違える)とか。思い込みが強い(中学生になって緩和されてきた)とか、体育が苦手(体の制御が不得意)とか。ありていに言うとバランスが悪い。
一番の心配ごとは、中学の成績で数学だけが極端に悪いこと。ただし本はよく読んでいて(年間千冊)、理解もしているので、数学では何かに躓いたままじゃないか、と彼の親二人はにらんでいる。

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本書は、オンライン教育というか、eラーニングというか、ITをベースとしたビデオによる教育の最先鋒、今を時めくカーン・アカデミーの創業者、サルマン・カーン氏のカーン・アカデミーの創業から今に至るこれまでをつづったもの。
どのようにして、どのような考えのもとにカーン・アカデミーを立ち上げたのか、今後どうしたいのか、どのような可能性があるのかがよくわかる。

カーン氏は、教室で1人の教師が大勢の生徒に向かって一斉に行う十把一絡げの教育ではなく、一人一人の個性に合わせた内容とペースの教育があるべきだという信念のもとに活動している。高校時代の本当にやりたい勉強を学校に理解してもらえなかった体験や、MIT時代の大勢で授業を受けるより個人のペースで勉強した経験も伏線になっているようだ。

一人一人に合わせた教育。
いつでもどこでも、気付いた時に必要な教育。
これは大人になってからも同じであるという。
幼児教育のモンテッソーリ教育の思想である、自発性と敏感期と周りのサポートの完備、に近い。
断言するが、この潮流はこれからの主流になるだろう。
教育における千年に一度の革命、教育のパラダイムシフトとは言い過ぎではない。

本書でもう一つすごいのは、カーン・アカデミーの可能性にかけて、安定高収入の証券アナリストの座を捨ててNPO法人を立ち上げたカーン氏と(家庭もあるので逡巡はあった)、同じく仕事を辞めてカーン・アカデミーに参画した超優秀な友人の「前向きさ」だろう。
何かが変わる、変える場に立っていることが見えたのだろう。

カーン・アカデミーについては、以前にも「教育のパラダイムシフト」としてポストしたが、TEDのプレゼンもわかりやすいので併せて視聴をお勧めしたい。

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話を1号に戻す。
1号の数学も、基礎である小学校のどこかで算数の何かを欠落したまま、または、誤って理解したまま進級したのが躓きの原因だと、彼の親たちはにらんでいるわけで、過去の躓きを未来への飛躍に変えるにはカーン・アカデミーのような場はそれこそ最適に思える。
カーン・アカデミーのライブラリの日本語訳版は、中学生以上が対象でまだライブラリが充実途上なので、カーン・アカデミーと趣旨はほとんど同じで国産のeboardでトライしてみることにした(トライするのは1号だが)。充実度ではカーン・アカデミーにはまだまだ及ばないけど、心意気を買った。
そのeboard上でもカーン・アカデミーのライブラリの翻訳や、算数の問題についてはカーン・アカデミーのフレームワークを用いているようだ。 オープンである。
結果が出れば、このblogで報告したい。

ちなみに、同じeboardでもアメリカのeBoardとは別物である。そっちは教育のコミュニケーション基盤のようだ。まだ日本には同じようなプラットフォームはないようだ。


2013/06/24

慰霊の日、鍵を落とす

ここ2年ほど、子どもの活動の関係で図らずも、6月23日の慰霊の日白梅の塔の式典に参加している。
3週間前には清掃活動にも参加した。

外間先生の戦記のポストでも書いたが、軍隊は軍隊と戦うのであって、民間人が戦場にいるべきでないし、民間人がいるところを戦場にすべきでない。

68年経ったいまでも酷い経験と理不尽な死に方は癒しても癒されるものではないと感じる。

ところで、慰霊祭からの帰り、16時半ごろ、家の前で家と車の鍵を紛失していることに気がついた。
とりあえず、私の素敵な奥様の車の鍵を借りて、現地に引き返し、現場捜索するも見つからず、式典設営会社に問い合わせるも見つからず、途中の移動に使ったモノレール会社に電話するも見つからず、白梅同窓会がチャーターしたバス会社へは営業時間終了とのことで連絡が付かず、万事休す。翌朝、再度バス会社へ連絡すると、ちゃんと保管されていて、仕事を終えた夕方に菓子折りを持参して取りに行く羽目になった。
バス運転手さんが、降り際に「忘れ物がないように」と注意してくださり、自分以外の席をチェックしてバスを降りたのだった。自分を疑わない馬鹿一人ここにあり。
 「慰霊の日  魂(マブイ)落とさず  鍵落とす  馬鹿をも救う  夕陽かな」
沖縄は夕陽とそれに照らされる島々の隅々が美しいといつも思う。

2013/06/20

似て非なるもの

親分肌と親分風。
寛大と尊大。
横柄と公平。
公平と公正。
一貫性と頑迷。
柔軟性と優柔不断。
融通と融資。
子供らしいと子供っぽい。
自主性と主体性。
YESとはい。
理と利。
文句と苦情と警告と忠告と勧告。
信用と信頼と信任と信望。
現実と事実と真実と真理。
愛と恋と情。
大人気と大人気ない。
羨ましいと恨めしい。
夢と希望と目標と目的。
要望と要請と要求。
エコとエゴ。
必死と必至。
共通と共有。
衆知と周知。
カワイイと顔はいい。
脇が甘いと脇がしょっぱい。

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画像は丸く寝る猫。
体の柔らかさは羨ましい限り。

2013/06/18

外に連れ出す代わりに廊下とエレベーターを使う

さっきのツイート。
これは1対1の時に限られる。
本当は外に連れ出して、いい空気を吸いながら話すと結論もだいぶ違うのだろうなぁ、と思う。

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画像は原則家飼いの猫。
ベランダと隣家の屋上が外の縄張り。

2013/06/17

「不格好経営 ―チームDeNAの挑戦」南場智子著

職場の同僚から、面白かったですよー、一気に読んでしまいましたー、ぜひ読んでください! と手渡しで押し付けられた本。
「はじめに」には、DeNA(ディー・エヌ・エー)の創業者である著者が、創業から今に至るまで成功談を語るのではなく、「失敗の経験こそ詳細に綴ることにした」とある。

スタートアップ時のマッキンゼーの同僚を引き抜いたりあちらこちらから優秀な人を引き抜く人集めや、大企業からの出資金集めなど、これは簡単には真似できないぞ、と思う。しかし、どんなにいい人材や豊富な資金がたとえあったとしても、メゲナイ精神力、ひたむきな努力がないとうまくいかないことが分かる。優秀な人材をリードし、チームを崩壊させない著者の力が背景に見えてくる。
他にも、経営コンサルタントと会社経営者の違い、チーム中心のフラットな組織、目的単位の仕事の割り振り、任せる風土、誰が言ったかではなく何を言ったか、年功にとらわれず成果での評価、失敗は当たり前で成長の機会とみなす、相手が社長であっても違うと思うなら容赦しない風通しの良さ、多様な人材への門戸の開放、などなどが随所に散りばめられていく。

弱肉強食、血で血を洗う競争市場において、本当は書けなかった、悔しくて眠れなかったこともあるだろうとは思う。それでも書ける分を失敗談と紹介しつつ、それをバネにして成長していく様は、著者自身が述べている著者の生き方そのものである。

囲い込み戦略をとる通信事業者との提携が頓挫した話しもあり、身につまされる。
通信事業者側の目論見はお客様の囲い込みであるが、お客様はそんなことは望んでいない。

読み終えて、自分の職場を振り返り、しばし思案に沈む。ふーむ。
お客様の事をどこまで感じ取れているか?
上司や経営陣が反対した時に自分が正しいと思うことを貫くことができるか?
上のせいにしていないか?
仕事を思い切り任せているか?
多様な人材を求めているか?


結論から言うと、存外に面白かった。
でも、成功のコツは書いてない。
形だけ真似してもやけどを負うだけである。

明日は出社だから、同僚に貸してくれたお礼を述べて、どこかで本書について語りたい。
そして仕事の何かを変えたい。

2013/06/13

「数量化革命」アルフレッド・W・クロスビー著、小沢千重子訳

ヨーロッパの発展に「数量化」の果たした役割を広範囲な分野でさ遡って検証する。

昔のヨーロッパも最初から合理的ではなく、 徐々に時間をかけて数量化になじむことで合理的な思考を獲得していったことがわかる。現代ヨーロッパの隆盛は数量化のおかげと言っても過言ではないように思える。

ただし、筆致が、教授の自己満足的な講義を長時間に渡って聴いているようで、正直に言うと私には最後まで読むのがつらかった(読み通しましたが…)。
豊富な資料のまとめとしてはいいのだろうけど。

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面白くなかった本は、書く時間がもったいないのでブログには載せない方針なのだが、私の評価とアマゾンのレビューとあまりに違うので載せてみた。

2013/06/12

父親の威厳

先週の日曜日、私の素敵な奥様はお出かけで不在のため、子供たち3人と午後を過ごすこととなった。
しばらくすると、子どもたちが「今日のおやつはー?」「おやつがない!」とまるで「おやつの提供は親の義務、おやつを食べるのは子の権利」と当然であるかのようにうるさいので主張するので、歩いて10分ほどのコンビニまで一人で物色に向かう。
梅雨の半ば、10分も歩くとさすがに汗もかいて暑いので、当初の目当てであったビスケット類ではなく、アイスにターゲットを切り替える。子供たちの顔を思い浮かべ、ハーゲンダッツのような高級アイスを横目で見ながら、お買い得感満載のアイスキャンディーの箱売りを購入する。
そして、また、10分かけて家に帰る。
玄関を開けるなり、

「おーい、みんなー、今日の獲物だぞー!」
「はーい!」

現代における給与生活者である父親の威厳はこうやって保たれる。

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画像はひと月ほど前の猫の後ろ姿。
ベランダにいる天敵の3号(♀5才)の様子を伺いつつ、耳は後ろに向けて撮影者に注意を払う。

2013/06/11

「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」外間守善著

おもろさうし」の研究の第一人者であった外間守善先生が初年兵として体験した沖縄戦記。2006年の出版である(文庫化は2012年)。
六十年たった今だからわかったこと、書けること、言えることがたくさんある。(p.11 はじめに)
著者は沖縄戦当時20才なので、80才の時の著書になるが、昨年11月に87才で亡くなられている。
妹を沖縄戦が始まる前に對馬丸の遭難で亡くし、長兄も沖縄戦で戦死している。103才で亡くなられた母君が、亡くなった二人の子を詠んだ琉歌がなんとも悲しい。
本書は、著者自身の前田高地での戦闘を描いた沖縄戦記に留まらず、捕虜収容所での出来事から沖縄脱出までを振り返り、また、前田高地での戦闘を共にした大隊長達や兵士達の証言とアメリカ側の記録と証言を併せて掲載している。

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沖縄戦記であるので、文字通り血なまぐさい話はそこかしこにでてくるが、ここでは、そこから視点をずらし、沖縄戦以前や当時の自然や街並み、人の暮らしを表している部分に焦点を当て引用してみる。

まずは、戦後、沖縄を密航で離れ、学究の徒となった、著者の原風景。
どこまでも澄み、抜けるように青い空。目に鮮やかな赤瓦と漆喰の白。木々の深い緑。そして明るい陽光。ものごころついた頃から馴染んできたその風景こそが私の故郷であり、原点である。(p.17 一 決戦前夜)
琉球王国時代から東アジア、東南アジアへの貿易港として発展した港町那覇はいつも活気づいて変化に富んでいた。その港町から、かつての琉球王国の都へと向かうなだらかな坂の辺りからその空気は一変する。そこには首里城へ続くゆるやかな時が流れており、民家の赤瓦もさることながら、道筋の石積み一つ一つにも重厚な風情を感じる。坂道を登りきり、朱塗りの守禮門から歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門とくぐって進むと首里城正殿に出る。奉神門の右手には玉城の鎮守、首里杜御嶽が、その奥には京の内と呼ばれる聖域があり、昼なお暗い幽玄な聖空間だった。その首里城へ向かう道を守禮門のそばの園比屋武御嶽で左に折れ、城壁にそって下る道には樹齢四〇〇年という赤木が鬱蒼と繁り、一層閑静な佇まいである。およそ五〇〇年前に造られたという龍潭池畔に、私の通う沖縄師範学校があった。(p.17 一 決戦前夜)
戦闘直前、敵艦船を初めて見る。
とうとう、敵機動部隊は、本島南部の湊川沖から喜屋武岬にかけて姿を現した。私は陣地壕を出て、丘陵の茂みに腹ばいになってそれを眺めた。紺碧の海に浮く真っ白な戦艦や巡洋艦は、まるで絵葉書か何かを見るようだった。限りなく青い空と海を背景に真っ白な艦船が眩いばかりに並んでいる。(p.45 一 決戦前夜)
捕虜となったあと、捕虜収容所での初めての芸能大会。
戦後初の芸能大会が石川の城前小学校の校庭で行われたのはその年の十二月二十五日のことである。(略) 砲弾の降ってこない南島の夜空に吸われていく三線の音や人々の歌声に改めて平和の尊さを実感した夜であった。
石川の城前小学校で行われた芸能大会が人々の心にどれほどの活力と潤いを与えたか、想像に難くない。枯れ枯れの大地に浸みとおる水のように、植えた心の奥 深くまで浸み込んでくるものを私自身も感じていた。後年、私は私の学問で「うりずん」という語に出会うが。歴史的にさまざまな苦悩を体験してきた沖縄を甦 らせてきた力を私も身を以って知った出来事であった。  (p.144 三 捕虜収容所にて)
ちなみに「うりずん」とは、冬が終わり、3月の終わり頃から梅雨の始まる5月初めまでの間、湿度も低く清々しい時期のこと。
1946年ごろの沖縄は既に復興の息吹を感じさせる。
沖縄全体が混沌としていたが、巷の人々は意外に明るく陽気だった。戦争でへこたれたという風情ではなくみんな元気にふるまっていた。逆境にうなだれないウチナーンチュの特性なのだろうか、アメリカの缶詰や野戦服の横行や軍票を使っての物流経済の中で人々は小さなしあわせを囲ってアメリカ世と呼んでいた。  (p.149 三 捕虜収容所にて) 
続いて、林上等兵の証言。
初めて沖縄に来た時の海や空の青、対比するように投降した時の太陽がまぶしい。
敵の潜水艦に怯えながら東シナ海を南下している頃、移動先が沖縄であることを知った。五日ほどかけて船団は沖縄の沖合にやってきた。北国育ちの林にとっては、初めて見る赤瓦の屋根やこの世のものとも思えない青さの海や空がまばゆかった。(p.215 四 証言編)
第二大隊は恩納村の山田国民学校に本部を置き、林たちは海岸沿いの真栄田集落に駐屯した。もう既に食糧難であったにもかかわらず沖縄の人々は優しかった。真栄田に到着するとすぐに集落の人々が心づくしのもてなしをしてくれた。麦粥に砂糖が入っていて滋味だった。 ひと月ほどすると多幸山で坑道陣地構築が始まった。この頃は漁師から魚を買ってくることもでき、沖縄時代で唯一、満腹感を味わえた時期だった。(p.216 四 証言編)
九月三日の朝、米軍将校と兵隊がジープとトラック五台で迎えにやって来た。久し振りに浴びる太陽がまぶしかった。そこには初めて沖縄にやって来た日に見た南国の抜けるような青空があった。 (p.227 四 証言編)
所属した大隊800名余のうち、降伏した9月3日まで生き残ったものは著者含め29名だった。
(日付から分かるように、沖縄ではポツダム宣言受諾の8月15日以降も局所的な戦闘は続いていた)

これらの引用から読めるのは、今も変わらない青い空、青い海、赤瓦、人々のホスピタリティとバイタリティ。
戦闘中の記述には色彩が欠けているのは、壕で休息、夜間に行動といった暗渠生活のためか。
そして引用したもの以外の大多数は砲弾の嵐、絶えず攻撃にさらされる転々とした壕での生活、それに血と屍の数々である。

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著者の思いは「おわりに」に凝縮されている。
戦後六十年。初年兵だった私が齢八十を超え、あの酷い戦いを証言出来る者が少なくなりつつある今だからこそ、私は私の体験した沖縄戦を出来る限り記録し、沖縄にいまだ訪れない心の平和についてもう一度考えてみたいと思う。(p.263 おわりに)
この後に、占領政府の確立、軍事基地の強化を目のあたりにし、一方で、日本国憲法の制定と平和思想の眩しさに思いを寄せる。しかし、対日講話条約(サンフランシスコ講和条約)、日米安全保障条約、日米地位協定が締結され、沖縄が切り離されたという事実が潜在主権という言葉でカモフラージュが施されたころから日本政府に不信を抱くようになる。少なくとも「沖縄に住む人々の合意はなかった」し、「沖縄県民には説明も説得もなかったし、内容も十分に伝わらなかった」のである。そして最後に
六十年前に辛酸をなめつくした沖縄だからこそ、そして今なお理不尽な条約が足かせとなって苦しみ続ける沖縄だからこそ、アジアや世界に向かって真の平和を求めるシグナルを発信できるのだと私は確信する。(p.274 おわりに)
と締めくくる。

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沖縄戦における民間人の犠牲の多くは、日本軍本部が首里から撤退し、南部に移動した頃に多くを占める。軍隊が民間人を守るのは二の次か間接的なことに限られることが分かる。この本でもそうだが、沖縄戦に関する本を読むと、軍隊は軍隊と戦うためにあるのであって、戦場に民間人がいるべきでないし、民間人がいるところを戦場にすべきではない。

人間、どうせ一度は死ぬのだから、せめて自分やその子孫の代には、自分の意志で生きてゆける世界であってほしいと思うし、世の中の仕組みとしての理不尽さは解消して欲しいと思うし、自分たちの手で解決すべきだと思う。そして、それは先生の思いにも通じるものがあると思う。

(追記: 本記事を書いた後に初めて見たアマゾンのレビューがどれもすばらしい。)

2013/06/05

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」にノックアウト

MacBookで作業していると、15分おきにランダムに入れ替わるデスクトップ画像に
"A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte"(グランド・ジャット島の日曜日の午後)
が現れた。
何度も見たことがあるが、ちょっと気休めのつもりで眺めてみる。
(是非画像をクリックして大きなサイズで見ていただきたい。リンク先はWikimedia)
絵の中には多くの人物がいるが、人物の表情がほとんど伺えないか無機質に描かれている。
もしかすると文章や絵でこの光景を描くことはできるかもしれない、と一瞬勘違いしそうになるが、その中で左下のパイプをくわえた男性の表情に目が留まる。

周囲が身だしなみを整えた紳士淑女であるのに対し、ラフで肌を見せる自由な服装、パイプをくゆらせながら規範から離れて体を仰向けに寝かせ、しかし、視線の先にあるはずの何かを鋭く凝視する目。歳は50を超えているだろう。彼の明確なライフスタイルと過去の様々な経験を想起させる。
この男の背景を描ききっている。
文章であれ絵であれ技量の問題ではなく、人間を理解する能力の面において、ある人生をこのように描くことは私には出来ない、と思った。

自分の完全な限界を今頃知る。

この絵のパロディが結構ある

2013/06/03

万魂之塔の仏像

慰霊の日を3週間後に控え、清掃活動に駆り出されてたまたま訪れた白梅の塔
画像は、同じ敷地内にある万魂之塔の片隅にぽかんと置かれた仏像。
手には花笠か?
手ごろな木を切り刻んで表情を与えているが、上下の木は元の木肌のままで、顔とその周囲、花笠には何かが塗られている。
即興で彫られたのかもしれない。
先の白梅の塔のリンク先の万魂之塔の画像にはこの仏像が映っていないことから、ここ半年ばかりに置かれたもののようだ。材質が木であるし、森の中でしかも、雨ざらしであるので、早晩朽ち果てると思うが、この仏師の思いが続いてほしいと思う。

万魂之塔には、その碑文を読むと4千柱を納骨しているという(ネット上では3千という数字が出ているが)。

2013/06/01

沖縄に戻った7つの理由

プロフィールにも書いてあるが、進学で1986年に沖縄を離れ、そのまま就職し、2001年に沖縄に戻ってきた。
その当時の人生の半分ほどを沖縄外で暮らしたわけだが、戻った理由は一つではなく、幾つかの要因が異なる方向から押し寄せてきて、あるタイミングで背中を押された感じがする。
干支も一回りしたので、覚えている内に書いてみようと思う。
もちろん、第一の想定読者は未来の自分とそれを語るべき家族だったりするので、一般化できるわけでもないが、決断に至った事情、背景が伝われば御の字である(実はすでに損得がイヤだったという感情を忘れつつある)。

1. 子供が生まれた
2000年に1号(♂13才)が生まれた。 切迫流産、切迫早産を経て、お腹の中で年が越せるかというのが我が家の2000年問題であった。私の素敵な奥様はある日を境に仕事にも行けなくなり外出も制限されていたので、とても大変だったと思う。
その1号は2000年問題をクリアしたと思ったら、出産予定日を間近に控えた1月後半のある金曜日、産婦人科の検診で、子どもの心拍数が弱くなっているから明日再検査して、変わりがないようなら帝王切開するね、と言われて帰宅すると、その晩遅くに1号は陣痛を仕掛けて、明朝無事生まれてくるというなかなかドラマティックな演出をしてくれた。
この子が、真っ裸で生まれてきて(当然か)、五体満足なのはよかったが、親というものがいないと、この子は簡単に死ぬのだなと思った。この子をここ東京で育てていくのか、と立ち止まって考えてみたことから、帰沖への具体的な検討が始まる。

2. 老後は暮らせないと思った
何人子供を持つか分からないが、そのうちみんな巣立っていき、夫婦二人だけでどうやって暮らしていいのか想像できなかった。奥様では不足ということではなく、二人で孤立するのでは、という感覚。みんな違って当たり前というより、みんな同じで当たり前、を強制されるような疎外感を感じていた。
当時は気付いていなかったが、合わせるのはストレスだった。
また、私の素敵な奥様が1号をお腹に抱えていたころ、JR中野駅でお腹が痛くて歩けず、うずくまっていたとき、北口のタクシー乗り場でタクシーを捕まえようとしたのだが、つぎつぎに乗り場のちょっと先でタクシーを捕まえる人達がいて私たちのところまで空車が来なかった。10分ほど奮闘してやっと捕まえることができたが、いつまでもこうして闘わなくてはならないのかと思った。

3. 少人数の会社で働いた
1996年にトレイニーとして香港へ異動になった(研修生だが、実質は最下層労働派遣ともいう)。
赴任先は、社長と現地人秘書、本社からの転勤出向者が3名に私を加えて6名の小所帯の会社である。
1か月後には中国(シンセンや広州)へ一人バス出張に行かされた。不安はあったが、なんとかなるもんだ。
小さな会社では、仕事の全体像がよく見えるし、一人で何もかもしないといけないし、 とにかく刺激的であった。
(私をトレイニーに推薦した誰だかわからない人に感謝したい)
大会社の歯車の歯であるよりは、せめて小さい会社でもいいから歯車程度にはなりたいものだと思い始めた。
沖縄に戻ってきた後、前の会社はそれなりに名の知れた会社だったので、辞めたことに対し友人の奥さんから「もったいない」と言われたが、私の人生の羅針盤はそこに針は指さないんだよな。どの会社で働く、ではなく、何をするかが重要であって、我慢を続けるより充実した時間を過ごす方が大事に思う。
それに社は会社が生き延びるためには何でもするもんだし、会社に何かを期待するのは間違いの元であるし。

4. 35才が目前だった。
当時は、転職には35才が一応の目安とされていたから(もしかして今も?)。
実績ではなく年齢で線引きするのもどうかと思うが、こっちがそう思っていなくても雇う方はどう考えているかわからない。実際、50才手前でもルータ設定バリバリの現役の方が職場にいるし、仕事は年齢より能力の問題かと思う。
とにかく、時間的なチャンスはあまりないと考えていた。

5. そのうち関東方面に大地震が来ると思った
今住んでいる人たちには申し訳ないが、これは本当にそう思ったし、今でも思っている。
最後に住んでいた中野は大きな被害はなさそうだが、中野から出ないというわけにもいかないので。
とはいえ、東京がダメになると、沖縄への経済的な波及も大きいとは思う(それでもなんとかする時間的猶予はある)。

6. インターネットが本格的になってきた
インターネットが充実し始めて、時間と場所を問わなくなってきた。
もちろん、直接会ったり見たりしないとわからないものも結構あるけど、情報格差はかなり埋められると感じた。
転職に際しては、メールのやり取り中心だったが、2度ほど自腹(当然)で担当の人に話を聞きにいったりもした。

7. 結局はなんだかんだと沖縄に関わってきた
最初に就職したころ、一人の時間が結構あったので三線を弾き始めたり、それが縁でエイサーと活動を共にしたり。
仕事を通して沖縄の役に立てればいいなと思っていた。
香港にいるころイギリス人の英語の先生に、友人から送られてきた渡嘉敷島のビーチの写真(白浜とサンゴ礁とエメラルドグリーンと紺青の海)を見せると、なぜ君がオキナワ、オキナワと言うのかわかったよ、なんてことを言われて、そんなに言っていたのか、と気づかされたことを覚えている。

(ここからは付け足し)
  • うまいこと転職先が見つかってラッキーではあった。沖縄での生活は仕事探しが最初の壁だと思う。
  • 正直言うと、転職して、給料は減るし(交渉はしたが受け入れられず年収35%減となったが今年ようやく当時の水準に達しそう)、沖縄は小さいぞ、という東京視点だったので、気分は都落ちで、ボロ家から再出発だな、くらいに考えていた。
  • 東京で損得をまず考える風潮に嫌気がさしていたのも事実。人生の収支決算って死ぬ間際までわからないんじゃないの? しかし、損得についての思いは忘れつつある。
  • 東京時代は結局のところ、地に足がついていなかっただけの可能性もある。
  • 建築は好きだったので、いつかはお仕着せの賃貸でもなく、買うわけでもなく、家を「建てて」みたかったというのもある。でも、これは言葉にしたこともなく、ふわっとした夢に近い状態だった。
沖縄に戻ってきて12年経ったが、自分自身の家族ができたことによる内面の変化が大きくて、あの時の気持ちに立ち返るのは難しくなりつつある。

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