2008/04/28

「木工のはなし」早川謙之輔著

本を読んだ後、ググってみたら亡くなられた直後であったので、文庫本を購入したのは2005年の秋か続く冬頃。
その後何度も読み返している。

木工一徹に生き、材としての木に真摯に向き合い、己の内部を見つめ、自身の限界を知り、道具への考察と職人との交流を通じてプロの仕事がなんたるかを表し、既に一人前として周りが見ているはずにもかかわらず師と仰ぐ人を持つ。

朴訥なようでいて実は洗練されているところもあり、ボクシングでいうと軽いジョブで牽制するのではなく、重いボディブローが徐々に効いてくるような読後感。何度か読み返すうちに慣れるのだが、こちらのガードもパンチを浴び続け麻痺し、そのボディブローがさらにはらわたに効いてくるような。
文体と文章からは内なる目を持ち、常に出来事、物事を反芻しているような感じを受ける。
会ったことはないし、もう会うことはできないが、もしも会えたとしたら、きっと私の中身の薄さを見透かされていただろう。

氏への追悼文が心に染みる。

「桜」の章に出てくる「小野桜」の造り酒屋はこちらか。
本で読むと遠い世界のことなのに目の前のPCには写真付きで今の状態を知ることが出来る。
今の時代、珍しいことではないが、執筆された時代との時間差を考えると不思議な気がする。

正倉院の「柿厨子」やヴィクトリア&アルバート美術館所蔵の「聖物棚」にまつわる文が本書にあるが、作者の死後であってもよい作品であれば作者の生よりずっと長く生き続けていけることを皮肉にも教えてくれている。
これらの画像はまだ発見していない。
見つかろうが見つかるまいが、ある場所は分かっているのでいつか自分の目で見て、氏の経験を追いかけたいと思う。


「聖物棚」はこれ(Museum number:11-1891)かな?

2008/04/27

絵本の中の詩をどう歌うか

3歳の第2子に寝る前絵本を2,3冊読んであげるのがお約束になっているのだが、その甲斐あって、読んであげるとお眠りにモード突入してくれるのでありがたい。

絵本によってはこれは歌えと言っている詩が挿入されているものがある。例えば「ぐりとぐら」シリーズのように国産の絵本に多い気がする。
詩の部分はインデントされたり、丁寧にイタリックで斜めにかしいでいるあたりから普通の読み方とは違いますよ、と示されているので、なんとしてでも歌わなければならない気にさせてくれる。
作者がどういうメロディを前提に置いているのかまったく不明なので、メロディは適当に、リズムだけ何となく歌っているぽくするが、結果、メロディは平板になりがちでリズムも先読みするか何回か読まないと合わない。詩が五七調だとどの絵本でも同じ歌になる。
人には聞かせられないな、と思いつつも今晩も読んであげる。
作者はどう歌ってほしいのか、というかそもそも歌ってほしいのか。
みんなどうしているのだろう。

絵本読みと音楽の組み合わせで今までの最強は「もけら もけら」。
ジャズ・ピアニストの山下洋輔と元永定正の絵が子供心には刺激をうけるらしい。
第2子が2歳のときには絵を見ただけでそのページの台詞というか詩というか音の文を覚えていた。その文そのものに意味はないのに、すごいな。
「ぐがんぐかん」のページはなぜかリズムから入れたので歌い易かったが、その他のページは結構読んであげる人の音楽的才能が試される絵本のように思う。
読む人が本気でページページに音楽をつけていかないと面白くない本だし、逆に、本気になればなるほど、見る側つまり子どもも見て聴いて楽しくなるのだろう。

そっか、文を読むだけだと手を抜いて読むことも可能だけど、歌わせることで読む側を本気にさせ、読む側と見て聞く側との間で短いながらも楽しい時間を創出するのが作者側の狙いなのか、な。

でも、やっぱり難しいよ、詩だけでメロディの無い歌は(「もけら もけら」はそもそも意味がついていないし)。

2008/04/24

大企業≠一流企業


一流企業って、よく聞くけど、大企業=一流企業とは限らない。
なにか勘違いしている人が多いのではないか。

前職では人によっては一流企業と呼ばれるところに勤めていたが、独占で資金も豊富にあり技術開発に結構投資してし、成果も上がっていたから、その分野では一流であったのだろう。
しかし、それ以外の分野は、独占から想像できるように営業、経営は三流。殿様商売。
競争が始まって独占が崩れると、技術一流を維持するのが困難になってきた。
結果、吸収合併で吸収される方。一抹の寂しさはあった。
経営は三流と書いたが、当時の社長の判断は正しかったと今はよりはっきりと思う。
吸収合併から1年経って家族や自分の来し方行く末を逡巡してUターン転職することにした。

現在の職場の関連会社は上場会社でもあるが、内情を知ると一流とは呼べない(詳しく書きたいが書けない)。

一流企業は経営や営業、総務、企画などを含めて一流でなければ一流企業と呼べないし、逆に中小企業でも一流企業は存在する。
もちろん、一流企業=大企業の場合もある。
規模ではなく質の問題。

これから就職する人たちには一流企業と聞いた時に疑ってかかることをお勧めする(余計なお世話)。

転職後の今? 中小の三流企業に勤めている。
(総務担当部署が三流だと企業は三流だと思いますよ)

2008/04/22

2008/04/18

blogサービスにおける「前へ」「次へ」

blogのページをめくるとき
 前へ
 次へ
とよく書いてあるが、運営サイトによってどっちが過去側でどっちが未来側なのか違いがある。

blogサービスに限って見てみる。リンクはblogサービスのトップページ。そこからお好きなblogを選択すれば前/後を確認できる(blogのデザインによってはそもそも無い場合もある)。

  • 前」が過去「次」が未来:
     はてなダイアリー
     gooブログ
     slashdot日記
     Biglobe(webryblog)
  • 「前」が未来「次」が過去:
     exciteブログ
     livedoor Blog
     ブログ:イザ!
  • それ以外:
     nifty(cocolog)  タイトル名表示(過去か未来かわからない)
     Seesaaブログ  タイトル名表示(nifty同様。そもそも表示しないblogが多い)
     Typepad  タイトル名表示
     Google(Blogger)  Newer/Olderと明記

過去分と未来分へのリンク(はてなだと[前の5日分]とかの表示がが左側、右側のどちらに配置されているかも違う。

表にしてみる。
blogサービス「前」「次」左位置右位置
はてなダイアリー過去未来<過去未来>
gooブログ過去未来<過去未来>
slashdot日記過去未来<過去未来>
Biglobe(webryblog)過去未来<<過去未来>>
exciteブログ未来過去<未来過去>
livedoor Blog未来過去<未来過去>
ブログ:イザ!未来過去<未来過去>
nifty(cocolog)タイトル名タイトル名<<過去未来>>
Seesaaブログタイトル名タイトル名<<過去未来>>
Google(Blogger)過去未来未来過去
Typepadタイトル名タイトル名<<過去未来>>

項目名と値を入れ替えてみた(最初こっちを作っていて、せっかくなので)。
blogサービス過去フレーズ未来フレーズ過去位置未来位置
はてなダイアリー<左右>
gooブログ<左右>
slashdot日記<左右>
Biglobe(webryblog)<<左右>>
exciteブログ右><左
livedoor Blog右><左
ブログ:イザ!右><左
nifty(cocolog)タイトル名タイトル名<<左右>>
Seesaaブログタイトル名タイトル名<<左右>>
Google(Blogger)Older(前)Newer(次、新しい)
Typepadタイトル名タイトル名<<左右>>

Google(Blogger)は日本語の場合、アーカイブを表示させると未来は「新しい投稿」、ポスト単体を表示させると「次の投稿」となっている。


「前」は「前に言った」は過去、「前に進む」は未来、よって、「前へ」は「前へ戻る」のか「前へ進む」のか人により解釈が違うので混乱の元。

「次」は「前」の対として使われているのと同時に単体では未来を示していると思われるが、「次」が「過去」となっているパターンは、新しい順(新しいのが一番上)に積み上げられた書類を1枚1枚めくっているイメージを私は想起する。どちらかというと使い手を想定しないプログラマやエンジニアの思考の産物のように思う。

それともblogエンジンの違い?
単純に英語の "previous" と "next" を翻訳しただけ? "previous"には時間的な先とか以前とかの意があると思うが。

日本語「新」はともかく「古」や「旧」はイメージが悪いのか? 分かり易いのはGoogle(Blogger)のNewer/Olderだが。

「前」「次」の代案として「より未来」「より過去」というのもあるが、「以前」とか「以後」は過去と未来に1対1に対応していて適当ではないか。
または「より以前」「より以後」はどうか。

2008/04/14

「痛い」と言うと本当に痛くなる

ものすごく痛くて我慢できないときは「痛い」という言葉さえ発声できず、「あぁー」「うぅー」とか、痛みを逃すために使われているように思う。

我慢ができそうな痛みに対して「痛い」と言うと、自ら事実認定をしたことになり、痛みの呪縛から離れられなくなるのではないか。

私の場合、足の小指をぶつけたときは痛みを引きするので何か喘いでいるが、注射の痛みは一瞬なので注射を直視しつつも、痛みは意識外へ置いておくことで痛さを紛らわせている。

子供達にはそんなこと言っても通じないので、なだめ、すかし、だまし、おどし、ほめ、たたえ、各種の技を駆使して注射を打たれてもらうぞ(決意)。

# 実際には だまし と おどし は使わないな

2008/04/06

秒速表示

秒速表示といっても、CPUが早くなったし、メモリも増設したし、余分なソフトやプロセスは削除したし、もう、1秒も待たずに表示されるようになった、というようなことでは全然なくて、車の速さの表示に時速(km/h)に加え、秒速(m/sec)も合わせて表示するようにするば、車を運転しているときの速度の出し方がより適切に安全方向へ意識付けできるのではないか。

車が1秒間にどれだけ進むかを運転手が想定できれば、路地で減速する方向に意識付けできるのではないかと思う。

家の前の道路幅は5mなので、車がすれ違うにはお互い最徐行するか、電柱があれば電柱側の車が一旦停止をする。大通りから入って時々分岐の直進だけ、 300mほどの生活道路である。その先には団地があるが、人と自転車、二輪車のみが団地からの往来が可能で自動車の行き来はできないない。この道を使うのはその道路周辺住人と住人に用がある関係者ばかりと考えてよく、団地と小学校を結ぶスクールゾーンでもある。狭い道路幅で抜け道でも何でないにもかかわらず、目測30km/h後半から40km/hは出していそうな車と遭遇する。単なる一歩行者としても十分脅威だし、同じ住民かその関係者かと思うと情けなくなる。

しかし、私も家の前ではないが狭い道を調子に乗って何度も速度を出していた経験があるのである。いつの日だったか総運転時間1000時間にもならない若かりし頃、たまたま乗り合わせた同乗者から「スピード出してるなぁ」と言われるまで、そんなに速度を出しているつもりはなく運転していた。自分はいつでも止まれるつもりでいたのである。同乗者か見れば止まれるようには見えなかったのだろう。運転経験を積むようになるにつれ自分の想像力の欠如をだんだんと感じるようになった。他人の指摘は天の声、以後、狭い路地はかなり減速するようにした。

路地で速度を出すのは、横から何かが飛び出したりすることや、歩行者の恐怖感に対して想像力が働かないからではないか。

時速表示は、移動可能な距離が推測し易いため便利な長さである。距離はkm単位での表示の方が数字が小さくなり扱いやすい。そのときの時間の単位は秒 (sec)や分(min)ではkmに届かず、時間(hour)となり、併せて時速表示となったのだろう。時速40(km/h)は、分速666.7 (m/min)、秒速11.1(m/sec)である。

一方、車を走る凶器、危険物として見ると、
  • 1t以上の鉄の塊が1時間に40km進む速度(時速40(km/h))で走る

というより、
  • 1t以上の鉄の塊が1秒間に11.1m進む速度(秒速11.1(m/sec))で走る

の方が人間の距離スケール時間スケールに合致していると思えるし、よりリアルで身近に感じるのではないか。

11.1(m/sec)では車約2台分の長さとも換算できる。

秒速10(m/s)を時速に換算すると36(km/h)となる。半分の5(m/sec)は18(km/h)、倍の20(m/sec)は72(km/h)。
  • 1(m/sec) - 3.6(km/h)
  • 5(m/sec) - 18(km/h)
  • 10(m/sec) - 36(km/h)
  • 20(m/sec) - 72(km/h)
  • 30(m/sec) - 108(km/h)

これに止まるまでに要する時間を常に意識付けするようにしたらさらに効果があると思うがどうか。実際に何かが飛び出したものに知覚するまでの時間、ブレーキを踏むまでにかかる動作に要する時間、実際に車が止まるまでの時間が必要になる。

こんなことごちゃごちゃ言うよりも「時速20(km/h)以下で通行しなさい」と頭ごなしに命令した方が効果があるのかな。

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