2019/05/27

梅雨なのでしんみり

空梅雨だけどしんみりした気分なのでしんみりした記事です。

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去る日曜日に父親の五回忌を迎えた。
亡くなったその年を一回忌というので、満4年になる。

両親と一緒に暮らしていたのは生まれてから進学のために家を出る19才までだから、すでに離れて暮らしていた時間のほうが圧倒的に長い。
それでも、ブログの記事に書こうと思うくらいだから、僕の中での父親の存在感は一定の地位を占める。

一方で認知症である母親だが、老人ホームを訪問して他愛もないほぼ会話にならない会話をしていると、彼女から、本人の両親(僕のオジーとオバー)の話は出てくるけど、その両親よりも長く一緒に暮らしていたはずの夫(僕の父親ね)のことは、まったく出てこないし、尋ねてみても思い出せないらしい。

僕の記憶の中の父親と忘却の母親の中のオジーとオバーの存在を考えると、人生における他人への想いの深さは必ずしも一緒にいた時間に比例するとは限らないし、長い人生のなかでほんの数分の一の時間を共有しただけだというのに、親という存在は、子の記憶や人生に確かな地位を占めるのだなぁ、と思わざるを得ない。

自立した1号(♂19才)、まだ在学中の2号(♀14才)と3号(♀11才)が数十年後、自分の力で人生を自分歩んでいるころ、彼らの両親、つまり私と私の素敵な奥様を振り返るのだろう。

画像は2号と3号が焼いたクッキー。
混ぜて型に入れて焼いただけだが、美味しいのですよ、これが。

2019/05/21

インドール - 飯田橋

出張のついでに5年ぶりに飯田橋は神楽坂入口の飯屋「インドール」で「豚肉のにんにく焼き」を頂戴した。

焼肉と一緒に炒められて、皿の上に残されたどこにも似たものがないタレを、千切りにされたキャベツに絡めて食べるほど好きだ。
この店の代表メニューは「豚肉のしょうが焼き」だと思うが、その味は私のスタンダードとして確立していて、他の店でインドールを超えるものに巡り合ったことはまだない。
後年、私はにんにく焼きを好むようになっていて、しかし、しょうが焼きもとても美味しい。

初めて就職した1992年から4年間ほど、仕事を終えて、狭くて味気ない寮に帰る道すがら週3,4回は通っていただろうか。休日はお昼にも通っていた。

1993年の米騒動では、飲食店が軒並みタイ米に切り替えたり、ライスの値段を上げたりしている中、インドールは一度も値上げを行わなかったしタイ米を使ったこともなかった。仕入れのコスト増を店が負担したのである。
その騒動の真っ最中のある日の晩、隣で食べていたおばさんが、出されたライスを見るなり、大声で「値段も上げずに、国産米を出し続けて、あんたはエライ!」だのなんだのとご主人を大げさに褒めていたことを思い出す。たしかにそのくらい珍しいことだった。
ご主人は彼女に応える訳でもなく、黙々と中華鍋に放り込んだ肉をフランベしていた。

そして今も値上げの仕方を忘れてしまったかのようにお値段据え置き、しょうが焼きとにんにく焼きは550円、並ライス150円、興が乗れば豚汁50円を追加するのが、当時も今も変わらない定番メニューである。お客さんの数が少ない時間帯には、ご主人と一緒に店に立つおかみさんのお惣菜がつくこともある。

カウンターしかないとてもとても細長い店で、お客の出入りには、座っている方も歩く方も触れ合うのがさけられないので、双方で気を使い合うほどの幅の狭さだ。
他にお客さんがいないお昼の遅く、誰かに話を聞いてもらいたいのか、おかみさんが「隣の店が空いた時、拡張していればもっと儲かったのに…」と愚痴っているそばで、ご主人は黙々と私のオーダーのために中華鍋を振っていた。
席数は倍以上になりそうなので、そうですね、とおかみさんに相槌を打ちつつ、一方で米騒動を真正面に受け止めたご主人だからこそ、そうはしなかったのだろうなと一人で納得した。

今となっては老齢にさしかかっていると思われるご主人とおかみさんが健在だったのが何より。
神楽坂入口における晩ごはんローテーションの一角を占めていた店は他にもあって、インドールの隣のホイコーローの店は健在だったが、裏通りのオムレツカレーと焼肉の「キッチンめとろ」は無くなっていて、時の流れを嫌が応にでも感じさせる。
インドールもいつまであるかわからない。
「いつまでもあると思うな親と金」に「店」も追加したい。

こうして今でも、インドールのしょうが焼き/にんにく焼きを時々思い出す。
昼夜問わず胃袋を満たしてくれた飯屋は、私の当時のメシヤ(救い主)だったと言っても差し支えない。

2019/5/21追記
2019年4月30日をもって惜しまれつつ閉店した。
https://twitter.com/uyabin/status/1118454819327361025?s=20

2019/05/03

比地大滝でキャンプ

ゴールデンウィーク初日から2泊3日で比地(ひじ)大滝キャンプ場へ家族でキャンプに行ってきた。
比地大滝は国頭(くにがみ)村の比地川の奥にある沖縄本島内で一番高い滝であり、やんばる国立公園内にある。
比地川沿いにトレッキングコースが整備されており、キャンプしなくてもトレッキングだけに訪れる人も多い。
トレッキングにかかる時間は往復50分くらい。
天候が危ぶまれる中、最終日の撤収作業のときだけ強く降ってきたので逃げるようにして帰ってきたのが心残り。

今回の比地川は、水量も豊富。
遊泳は禁止だが、軽い川遊びは管理側から認められている。


到着早々、2号(♀14才)と3号(♀11才)は、比地川の流れを変え、人工的にダムを作ったりして自然と触れ合っておりました。
人間が自然と触れ合うと得てして人工的になってしまうという一例かな。

二日目の朝は一人早起きして、比地〜奥間〜辺土名(へんとな)を自転車でポタリング、15kmほど。
道がほぼ平坦なので、いつも首里の坂道を登ったり降りたりしている身にとっては全く苦にならない。
道もとても走りやすい。
途中で、すれ違ったオジーにあいさつなどをする。

二日目の朝ごはんは、骨付きウィナー(というかウィナーに豚の肋骨を刺したもの)にスーパーで仕入れたナン。
ウィンナーはウェバーのグリルに火を入れて、ジュウジュウ焼く。ナンもこのあとウェバーで温める。
夜ご飯はウェバーでBBQと決まっているのだが、その後も炭を追加したり枯れ枝を放り込んだりしながら、2、3時間は火を続ける。
火を囲んで家族で話し込めるし、何しろリラックスできる=焚き火効果が得られているので、ウェーバは重宝している。 

二日目の午前は比地大滝をトレッキング。
トレッキングコースは以前に訪れた5年前よりもさらに全般に整備が行き届いていており、手すりもあって、危険は感じない。
ただ、コース途中には手すりが落石により破損(支柱が折れ、手すりも変形)しているので「落石に注意」の看板に説得力が増している。 

比地大滝は、昔と違って、今は遊泳禁止なので、眺めるだけ。
救命ヘリも降りられるところがなさそうなので、確かに、ここで溺れたらそれこそ一大事に至りそう。

途中、望遠レンズを構えているおじさん一行がいたので、一人に声を掛けると、「ニーハオ」と返してきたので、台湾の人だろうか?
とりあえずカメラを指して
「Birds?」
と訊ねると
「Birds!」
と返ってきた。
撮ったばかりのホントウアカヒゲのきれいな写真を見せてもらった。

トレッキングコースは、途中からアップダウンが激しくなるが、幼稚園児も自分の足で歩いていたし、子どもを抱っこしたまま往復した親御さんもいたので、足腰が丈夫であれば、どの年代でもなんとかなるかもしれない。
二日目の午後は、美ら海水族館。
観光客が喜んでいるのを見て、こちらも嬉しくなる。みんな楽しんでね。

熱帯ドリームセンター、海洋文化館も見学して、二日目は終了。

iPhoneのヘルスケアによると、この日だけで12kmを歩き、56階分を登ったようだ。 

キャンプ場内のトイレの照明。
手前は照明を落とされた自動販売機。
上向きの矢印に見えたのが面白くて撮影したが、上をよく見ろ、明日の天候に気をつけろというメッセージだったのだろうか。


三日目は雨。
朝ご飯から撤収までの間、目の前で10分おきにころころ変わる雨の強さとiPhoneアプリの降雨予測とにらめっこしていたので、画像を撮る余裕もない。 

雨が断続的に降っているにもかかわらず、トレッキングに挑む人たちが絶えないので、計画を変えられないのかな?と訝しみながら撤収作業を進める。
ようやく濡れながら撤収を完了し、帰り道を車で行くと、地域によって降ったり振らなかったり。雨の中ずぶ濡れになりながらトレッキングに挑んだ人たちは、現地に着いてみて初めて、まさか降っているとは思わなかった、ここまで来たから行ってみよう、というところだったのでしょうか。

帰宅したこの日の午後から、無事に(?)トレッキング他もろもろによる筋肉痛に襲われました。

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