2008/02/26

宝くじのナゾ

よく宝くじの売り場に「この売り場からxx等yyyy万円が出ました」とあるけど、販売した宝くじだけでなく、販売されなかった宝くじも含まれていたりして。

身近な売り場で当選が出れば、なんとなく購入意欲をそそられたりして。

公開されている年末ジャンボの当選番号決定とか見てると宝くじの当選番号の決め方(抽選と呼ばれる)はそれこそ一桁ずつランダムに決定しているようなので、その番号が購入されたかものかどうかは考慮されてなかったりして。

実際の当選者はかなり少なかったりして。

一等でさえいなかったりして。

当選上位の等級は当選番号だけでなく組まで指定されているので発行枚数が多ければ多いほど、当たる確率が薄くなる道理なので、胴元は発行にかかる費用(印刷代と保管代とか)と当選者達への支払う当せん金を天秤にかけて計算し、やっぱりたくさん発行することになってたりして。

一見公平に見える抽選方法(各桁ランダム)が実は当選者数を劇的に減らす効果があったりして。

宝くじに当たる確率は交通事故に遭う確率より低く、たくさん買っても1枚買っても期待値に差が出ないとすれば、その上、上記の推測が正しければ、購入の際にはますます冷静にならないといけないのだが、買ってる時点で負けかなとか(負けはダブルミーニング)。

とはいえ、1枚だけ買うのも当選番号との番号合わせの時なんだか淋しい。

追記:ここのANo.5に良回答が。

2008/02/22

子供と私の成長

先に紹介したエッセイ集で森博嗣氏は自身の子供が幼少だったころ、全力で好きなことをしてその姿、手本を見せるというポリシーを一貫していたそうだ。

仕事も熱中していたにもかかわらず、ラジコン飛行機に凝っていて、たまの休み(日曜の午前中とか)にも、ラジコン飛行機を車に乗せ飛行場まで向かい、奥さんは年子の子供を乗せ氏の後を着いてきた(実用的な車を持っていないので2台に分乗)。奥さんが河原で子供らを遊ばせている間も氏はラジコンに全力で熱中。遊びに全力で熱中する父親の姿を見せていたと。子供の相手をすることだけが愛情表現ではないと。

私の場合、積極的に子供にかかわること(時間と体と言葉と)で自分が成長していることを感じている。特にコミュニケーション能力の向上において。結婚した後でさえ意味もないのにニコッとかできなかったもんな。

また、後で書くこととする。

2008/02/19

ブラックアウト

ある晩、自分が死ぬ夢を見た。

というのは正確ではなく、その夢の中で、(周りには人がいるようだ)自分の意識が覚醒された状態から眠るように(実際夢だから寝ているんですが)だんだん遠ざかっていき、視界が狭くなり周りの音が声が聞こえないというように視覚聴覚が鈍くなり、ついにはブラックアウトした、という夢を見つつ、ああ夢だぁ、と目覚めたとき、死ぬときはこうなのかと思った。

ブラックアウトの先に残っていたのは無。自我が消え、そして世界(この世?)が消えた、ように思えた(自我が消えたことを認識していることが可笑しいですが、夢ですから)。

目で見る世界、耳で聞こえる世界、五感で感じる世界は脳が巧妙に構築した仮想世界であり、色や光や物理的な実世界とは別にあるとすれば、本当の世界は誰も知らず、知ったとしても共有できず、人が介在している限り何が正しい世界なのか判断はできない(そもそも人が介在しない世界なんて意味があるのだろうか)。

禅問答にあったかな。哲学かも。

「誰もない森の中で木が倒れたらその音は聞こえるか」

というような。長岡鉄男氏がそれについて書いていたような。

自我においては目で見る世界、耳で聞こえる世界、五感で感じる世界以外は無いのも同じで(ちょっと飛躍)、現実の世界ではあちらこちらで内戦、紛争によりたくさんの人々が死に傷つき苦しんでいるにもかかわらず、例えニュースでそれを知ったとしても感じることのない世界であり、ニュースが本当であろうが嘘であろうが自己の生命には何の影響も及ぼさない。自我の感じる世界はたかだか半径数十メートルの世界だ(知識と想像力は宇宙の果てまで)。

自我と自我の認識する仮想世界と認識されない残りの世界があり、それぞれは従属し合い、相対化され、それとは別に実世界がまた馴れ合うように存在しているのだろう。

そして、その夢で自分が消えることは世界が消えることに等しいことを悟った、つもりになっている(逆も真ですか)。

昨年、3人(友人、隣人、叔母)の親しい人が亡くなったので影響があったのかもしれないし、睡眠に入る状況を夢見ただけかもしれない、とは思う。

2008/02/12

役に立たない数字

ADOBE READER 8 Windows 2000 version 8.1.2 にクレジットされている人の数;

859人

各国特有の名前が見られて面白い。
日本人とおぼしき名前も見受けられる(子音と母音がほぼ1対1で連なっているので見つけ易い)。

一手一手

将棋の戦法は初手こそあまりバリエーションがないが(先手で17種、後手の場合も17種なので組み合わせは17*17=289種)、指し手を進めていくと同一局面にはなかなかなりえない。

その時その時に選択する一手一手が文字通り戦いの岐路で王将の運命の岐路だ。選択した一手が違う局面を呼び、時には優勢に時には劣勢に局面を進めていく。
他人の局面を途中から覗くと(他人が私の局面を覗くと)、何でこうなるのだ?、と思うこともしばしばだけれど(と思われるに違いないなきっと)、初手から追っていくと、当人にとっては悪手好手取り混ぜた必然の行く末。

窮地を打開し逆転に1%の望みにかけるのか、華々しく切り込んだものの攻めは切れ筋で尻すぼみ戦意喪失となるか、優勢の局面に満足している間に頓死を食らうのか。

死んだら終わりの人生と敵の王様が死んでも終わりの将棋とは根本が違いますが。

さすれば、敵はなんでしょう。

人生に練習もなし、やり直しもなし。将棋のように9x9の81マス目ではなく、マス目の大きさも立ちはだかる障害も何も分からない。神とか運命がどんな手を指してくるのか。
それでも、時間は刻々と過ぎていくので自分の一手を信じて一手一手と手を進めるしかない。

(時間切れで負けというオチだったりして)
(無神論者です)
(将棋は中学以来触れて無く強くありません。インターネットのおかげで観戦を楽しんでます)

2008/02/08

「工作少年の日々」森博嗣著とデザインとアート



この本を読んでるとデザインとアートについて書いてある。
デザインは設計図等を使って完成型が事前に分かるもの。工業製品。
アートは予め完成型など考えずに作業進めていくうちに形になっていくもの。
最近のメジャーな音楽シーンがつまらないのはデザイン化されているからか。プロダクト(製品)とか言うしな。

この本は後半の数編が著者の生き方観が主張されていて刺激になる。

2年くらい前、偶然氏のblogを偶然見つけたときはやけに理系方面に詳しい人だなとの印象。後に大学の先生であり(退職したようだ)、小説家でもあることを知る。
こういう出会いは自分の興味の先の細い糸をたぐり寄せたようでとてもとても面白い。

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