原著は"With the Old Breed : At Peleliu and Okinawa"(Eugene B. Sledge, Presidio Press, 1981)。
画像は、訳本がはてなへ、原著がWikipediaへリンクしている。
18才で志願兵として入隊した海兵隊員の回想録。著者は復員後最終的に生物学の教授となった。
今まで、沖縄戦に関しては住民側の立場の記録は時を変え場所を変え何度も読んだが、米国側の生々しい記録はこれが初めてである。欠けていたピースが見つかった感じだ。
著者は公式な文書や歴史書と実際に筆者が体験した前線での様相との乖離が激しいことに驚いたことが執筆に至った動機の一つのようだが、この回想録を記述することによって戦友たちへの責任を果たすことが著者の務めだと感じていたようだ。ただし、書き上げるまでには、長い時間が経っている。夜中に襲ってくる悪夢から目覚めて冷や汗や動悸に襲われることがなくなるまで待たなければならなかった。1944年9月15日に始まったペリリューでの1ヶ月半、1945年4月1日沖縄上陸以降の3ヶ月、正味4ヶ月半に及ぶ戦いの傷跡を時が癒してくれるまでに実に36年近くもかかっている。
太平洋戦線での体験は脳裏を離れることがなく、その記憶は私の心につねに重くのしかかってきた。(中略) 彼らは我が祖国のためにあまりにも大きな苦しみを味わったのだ。一人として無傷で帰還することはできなかった。多くは生命を、そして健康を捧げ、正気を犠牲に捧げた者もいる。生きて帰ったきた者たちは、記憶から消し去ってしまいたい恐怖の体験を忘れることはできないだろう。(p.4 はしがき)ペリリューも沖縄も戦いの前線は両国共に常に凄惨な修羅場、地獄絵図が展開される。ただ、同じ地獄にしても、米国側には、後方支援があり、物資の補給があり、兵の補充があり、部隊の交代があり、束の間の休息があり、「100万ドルの負傷」で本国へ帰るチャンスがある。その米国でさえ上述の引用のように生き残った体験者に暗い影を落としている。対して日本側は物資の補給も、兵の補充もなく、最後には逃げるところも無く、負傷は即死を意味し、生きる望みは無いに等しい。どのように死ぬかだ。目の前の地獄から逃げおおせたとしても待ち受けているのはまた別の地獄である。
日本兵による海兵隊員への死体損壊目撃も提示されているが、本書が特筆すべきなのは、同じ海兵隊員による蛮行の数々(死にかけている日本兵からの金歯奪略の目撃とか)や、夜中日本軍に悟られてはいけない時に精神的に耐えきれなくなった同胞を静かにさせるために行われたこと(朝には死んでいた)、親友同士の悪ふざけによる事故死(空砲だと思ったら弾が入っていた)など、包み隠さず記述していることである。戦争の狂気をあからさまにする。単純な米国万歳の本ではないのである。
もう一つ、通湊低音のように流れているのが共に戦った戦友達との信頼関係だ。命を託した「信頼」はすでに「家族」と同義であると述べる(逆に言うと信頼できる関係が家族とも言える)。
訳者あとがきにも解説にも繰り返し述べられているが著者は「無益」「無駄」な命の消費を嘆き、戦争がもたらす「狂気」と「むごたらしさ」をひたすら伝えようとする。
われわれは頭のつぶれた敵の将校を砲壕の端まで引きずっていき、斜面の下に転がした。暴力と衝撃と血糊と苦難−−−人間同士が殺し合う、醜い現実のすべてがそこに凝縮されていた。栄光ある戦争などという妄想を少しでも抱いている人々には、こういう出来事をこそ、とっくりとその目で見てほしいものだ。敵も味方も、文明人どころか未開の野蛮人としか思えないような、それは残虐で非道な光景だった。(p.456 第十五章 苦難の果て)同時に、当初は日本兵に対しても同じ戦争に巻き込まれた人間として見ていたが、それも同僚たちが殺戮されるにつれ日本兵を「ジャップ」や「ニップ」と呼び憎悪を露わにし同情の念が消えていったことも告白する。
しかし、沖縄戦では、住民を「ニップ」とは違う扱いをしていた記述もある(傷を負い自分を殺すよう嘆願している老婆の救護を要請する隙に、おとなしく物腰の柔らかな若者が彼女を殺害したことに対し逆上し、同僚と共に彼に怒りをぶつけている。
「俺たちが殺さなきゃいけないのはニップなんだ。こんなばあさんじゃないんだ!」(p.434 第十四章 首里を過ぎて)ペリリュー島では住民は島外へ移住させられていたが、沖縄戦では住民が日本軍と行動を共にした結果、その多くが砲弾に巻き込まれ死んでいったのではないかと思う。
また、時に現れる沖縄の風景や景色に触れるたびに美しいと描く。
保阪正康(ノンフィクション作家)による解説の最後。
日本軍の将校、下士官、兵士からこのような内省的な作品が書かれなかったことに、私は改めて複雑な思いを持ったのである。(p.476 解説)Wikipediaのペリリュー島の戦いには、ニミッツ提督が日本軍の勇敢さを讃えたとされる詩文が紹介されているが、Wikipediaにさえ言外に捏造と思わせる記述ぶりで、実際の英文も中学生の教科書的であり日本人が作ったとしか思えない。歴史の歪曲は死んだ兵士たち住民たちへの冒涜であり、より賢い未来を放棄するものとは思えないのだろうか。
ただ、原著が発刊されて27年、最初の訳本が出版されて17年経った今出版に至った関係者の執念に感動し、感謝すると共に、かつて「敵国」だった米国側の記録を出版にまでこぎ着けた彼らの姿勢に一筋の光明とも言うべき良心を感じるのである。
1945年から64年、原著の初版から既に28年の歳月が流れている。これらの戦いで肉体、精神の両面で運良く生き残った著者も2001年に亡くなった。死に際して何を思っただろうか? ペリリューと沖縄を再訪したことはあったのだろうか?
伝えている内容と共に筆者の冷静な筆致に加えとても読みやすい訳で好著だと思うが、訳本では沖縄の地名のふりがなに2点ほど誤りがあるようなので指摘しておく(リンク先はWikipedia)。
このポストを書く過程でものすごいサイトを発見した。
沖縄戦史公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
圧巻なのは沖縄戦史の記述を日本米国両側の記録から浮かび上がらせ、それと共に戦場写真から撮影位置を探し出し、現在の写真と比較している。現在の住居の近くや実家の近くの写真もあってかつての戦場の上に生きていることを実感させられる。
沖縄は日に日に変わり続けている。土地の記憶も造成や住宅建築でなくなりつつあることが上述のサイトからもよく分かる。
歴史は繰り返すという。でも先人たちの悲惨な経験を未来に繰り返す必要はない。このような本だけで十分だ。
2年経ってからのコメントになりますが、御容赦ください。私も最近『ペリリュー・沖縄戦記』を読み、感銘を受けました。沖縄の方とあれば、インパクトは一層強いことだろうと想像いたします。
返信削除が、そのことよりも、「ニミッツ作の詩文」について、自分と同じく残念に思っている方がいることを知って、書き残したくなった次第です。まさにこれは日本の中学英語で書かれています。そして「伝えられよ」という敬語の命令を"should be told"と受身に訳してしまっています。
こうしたでっちあげは、故ニミッツ提督にも、戦いで亡くなった日米両国民にも、あまりに失礼な話、恥ずかしい話です。しかしながら、Wikipediaでの綿密な考証にもかかわらず、こういう「いい話」は広まってしまうもののようです。困ったことですが…
Odakenjiさん。
返信削除コメントありがとうございます。
ここ沖縄も復興凄まじく、ある意味、人の生きる力はすごいと思わせるのですが、残す努力をしなければ忘れ去られてしまいそうで、また同じ事を繰り返すのではないか、と思います。
歴史から学ぶことは、人類が長い年月のPDCAサイクルを回しているようなもんだと思います。PDCAのCheckに嘘が入るとActionはとんでもない方向に。
「ニミッツ作の詩文」の関係者は、過去に犠牲となった人たちも、未来の社会を背負う子供たちも冒涜しているのではないかと感じます。
uyabinさん、ご返事ありがとうございます。また時々立ち寄らせてください。良いお年を!
返信削除Odakenjiさん。
返信削除こちらこそ、拙文にコメントありがとうございました。
良いお年を。