2008/11/14

去る人々 (1/2)

画像はWikipedia Commonsからスイスのラヴェルテッツォ(Lavertezzo)にある渓流にかかる石橋「ポンテ・デイ・サルティ」(Ponte dei Salti)。

わすれられないおくりもの - "Badger's Parting Gifts"にも書いた隣人のおじさん以外に昨年は身近の人が少なからず亡くなった。数えてみると隣人のおじさんを含めて4人。すべて1周忌が終わった。
年をとるにつれ死による別れは増えていくのが当たり前ではあるが、後々年月まで覚えてられる自信がないので記憶に留めるため記録することにする。
個人的には少し重い話となる。

2007年5月。
小学4年の時転校してきて、そのとたん入院してしまい、クラスの有志でお見舞いに行ったS。結局、小中高と一緒だった。
実は初恋の人も一緒だったと思う。小4の時だ。初恋というか初めてその存在が気になるようになった異性というか。Sの主導で一緒に自転車に乗ってその子の家を探索に行ったりした。
自死。
私よりもっと近くにいた友人達はいろいろ仕事の世話をしたり、彼の人生に関わってきたし、かなりの無念さが伝わってきた。私としては彼の行為を肯定も否定も出来ない。そう決意し実行するまでは相当苦しかったのだろう。重くのしかかる考えは堂々巡り、出口のない迷路のようでいて、また、同じ場所に戻ってしまう。一番自分が苦しいと感じていたはずだ。
ただ、残されたご両親の悲しみを考えると子を持つ親としてはやりきれない。遺書も無かったと聞く。ご両親は理由を知りたがっていた。永遠に答えが見つからない疑問を抱えてご両親はそれでも生きていかなければならない。母の日の直前で机には彼の母親用にか母の日のイベントの招待券が並べてあったということだ。
告別式の帰り、友人達とちょっとした飲み屋に集まった。ワイン好きの友人がいたので赤ワインを頼み、ワイングラスを人数分に一つ加えて、彼への弔いにした。涙を流す者はいない。黙っているとむなしさと無念さが広がっていくの感じる。それを押しとどめるため、現実世界の話題を交わし続けた。他のみんなも同じ気持ちだったのではないか。表面とは裏腹に心の中では夜が更けるのを静かに待っていた。
Sの話には余談がある。

2007年5月。
いとこの実父Y。そのいとこにも長いこと会っていないし、いとこの実母(私の母親の妹、つまり叔母さん)はとうに離婚しその後再婚してそっちのつきあいは長く今もちょくちょく会う。
上の同級Sの死を知った私の母親がしばらくしてそっと教えてくれたのだが、設計士の事業がうまくいかなくて自殺したようだ。
小学生の時は親戚間のつきあいがとてもよく、そのいとこ同士で10人くらいは親に連れられて毎週のように会って遊んでいた。そのせいか、Yには長いこと会っていなかったにもかかわらず不思議と今でも顔を思い出せる。
ただ、建築業界も厳しいという認識が刻み込まれたし残念だという気持ちはあるが不思議と悲しくはない。たぶん、既に思い出の中の人だからだ、と思う。

2007年8月。
隣人のおじさん。先のポストに書いた。

2007年10月。
そして、伯母のM(父の姉)。
書いていたら長くなったので別ポストとする。

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