2016/04/13

「鏡の中の自分を見ること」は客観的か?

物理的に、何か鏡のようなものに自分の姿を反射しないかぎり、自分の顔や頭や背中を見ることはない。
自分を客観的に見ることは果たして可能なのだろうか?
仮に鏡が目の前にあったとしても、鏡の中の自分は「見たいものしか見えない効果」で、必ずしも自分を「客観的」に見ることはできない。
鏡による光の反射が作り出す像でさえ主観的にしか見えないのだから、人の五感をして得た情報を客観的とすることはなかなか難しい。
よって、客観的を視点を持つために無機的な機械が吐き出す観測データによる数値化=定量化が叫ばれる所以であるが、人によって定量化の結果の見せ方が変わったりするので定量化にも100%の信頼は置けないし、数値化出来る範囲も限られている。
実際のところ、定量的にはかくがくしかじかと言いつつ、主観的な結論に導いてしまうこともままある中、他人がその結論を信ずれば客観的と認定されるように思う。
それ以外は、つまり、他人が信じなければすべて主観的と見なされるのだろう。

ところで、
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手をを見る
と詠ったのは今日(4/13)が命日の石川啄木だが、自分の手を見て自身の現状と取り巻く社会を浮かび上がらせた鏡のような詩は客観的に見えるから不思議だ。
もっとも、私自身、キーボードを叩く手を見ても何の感慨も湧かないのだが、ディスプレイに浮き出たテキストを見て何か嘆くことはある。

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画像は、枝豆ジェンガ。
飲み屋で枝豆を頼んだ時に周囲を巻き込んで、井桁に組んだ枝豆タワーを建てている。
1号(♂16才)がまだ幼い時、外食時にテーブルでじっと出来ないのでゲームで縛り付けるためにこれを思いついたのだった。
枝豆ジェンガが必ずしも周囲から歓迎されているとは限らないが、淡い思い出に浸りながら一つ一つ枝豆のさやを重ねている。
(この時は金沢出張でお一人様枝豆ジェンガ ^^;)



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