2013/03/27

「採用基準」伊賀泰代著

必要とされている力とは?

今の時代、今の日本に必要とされている力は何か?

人間は生きているならば、奴隷のように自由を奪われていない限り、自分のことに対しては強力なリーダーシップを発揮する。
例えば、朝いつ起きるのか、から始まって、体調を推し量り、布団をどうするか、朝飯はどう、着替えはどう、などなど自分が次に何をすべきか、次々と迫ってくる雑多な事々に素早く決断し、決断に沿って行動して、1日1日を生きていく。これは自分に対するリーダーシップがあるからであり、その決断と行動の結果は自分自身に対する成果である。
ところが、その自分に対する強力なリーダーシップを有する個人個人が、何かの目標を達成するために存在する組織の一員となると、とたんにリーダーシップが発揮できなくなる。
なぜか?

元マッキンゼーのコンサルタントであり採用マネージャでもあった著者が、マッキンゼーでは将来のリーダーを必要とし、「リーダーシップ」こそが最重要な「採用基準」であったことを明かす。そのリーダーシップが今の日本に最も必要なものではないか、と自身の経験から語る。

リーダーシップとは、目的や成果達成のために、積極的に役割を引き受けることであり、企業、自治体、NPOなど、あらゆる組織に適用出来るとし、また、リーダシップを持つべきなのはリーダーがだけではなく、リーダーでない人もリーダーシップが必要だと説く。
いわゆる全員リーダーシップ論である。

全員リーダーシップ論

全員リーダーシップでは、「船頭多くして船山に上る」とならないか、リーダーだけがリーダーシップを持つべきではないか?
著者は明確にそれを否定し、いわゆる管理職はマネージャであり、リーダーとマネージャーの概念は明確に異なると指摘する。該当部分を引用する。

(p. 101 3章 さまざまな概念と混同されるリーダーシップ)
さらに混乱しがちな概念がマネージャーとリーダーです。マネージャーは管理者です。求められる業務は、部下の労務管理であり、組織内の個々の仕事の進行管理や品質管理、そして予算管理です。
三名の組織ならマネージャは不要です。管理が不要だからです。しかし三名の組織でも、成果目標があればリーダーは必要です。リーダーシップを発揮する人がいないと、目標は達成出来ません。一方、構成員の規模(人員)や仕事の領域が一定範囲を超えれば、特に成果が問われる状況ではなくても、管理職は必要となります。
マネージャーが必要なのは、成果を達成するためではなく、組織内の人数が多くなると管理が行き届かなくなるからです。この「管理のために必要な役割」と、「成果達成のために必要な役割」はまったく異なるのです。
この2つの概念が混乱するのは、多くの組織において、
  • 管理職には、管理だけでなくリーダーシップも求められている
  • 管理職以外には、管理はもちろんリーダーシップも求められていない
からです。つまり日本では、管理職というポジションとリーダーシップが結び付けられてしまっているのです。
続けてこう書く。
しかも管理職は、
  • 管理能力
  • リーダーシップ
  • プレーヤーとしての能力
のすべてを求められているにもかかわらず、管理能力とプレーヤーとしての能力が一定水準に達することで、管理職に就くことがあります。さらには、一般的な管理職研修の中身には、法令遵守(compliance)や、部下の評価・管理方法など手続き的な手順(due diligence)に関するものが多く、「リーダーとは何か」、「リーダに必要なスキルは何か」、「成果をたすためには、困難な状況の中でどのように組織を率いていくべきか」といった、リーダーシップに関するものは多くありません。
昇格基準においてもリーダーシップが軽視され、かつ、研修でもその部分が欠落しているとなれば、リーダーシップの弱い管理職が大量発生してしまうのも当然です。ところが、日本企業であっても組織の管理職には成果目標が問われます。これが不幸の源です。
不幸の源とは何か。
リーダーシップのない人に成果目標を与えると、その人は結果を出すために無謀な方法に頼ります。プレーヤーとしての自分の成功体験をメンバーに押し付けたり、根性論や精神論で乗り切ろうとする人もいます。部下や納入業者など、力の弱いものをたたいて成果をあげようとする人も出てくるし、なかには不正な方法に頼る人も出てきます。チームのメンバーにとっては、たまったものではありません。
名選手、必ずしも名監督にあらず。
しかし、このような単純なセオリーでさえ、日本の組織では気づけないし、気づいたとしても変革を起こすまでに至ってないところが多い。変革を起こせない、それこそが「リーダーシップが欠如」している表れではないだろうか。

ワインバーグのリーダシップ論

ところで、著者のリーダーシップ論は、G. M. ワインバーグの「「スーパーエンジニアへの道」のリーダーシップ論と表現は違うし、定義も違う。共通しているのは成果を出すためにはリーダーシップが必要であり、それはある一人のリーダーに頼ったものではない、ということだ。
ワインバーグの(有機的)リーダシップの定義の一つを再引用する。
リーダーシップとは、人々が力を付与されるような環境を作り出すプロセスである。
(略)
だがアーニーやフィリスやウェーバーも、驚くべき形式でリーダーシップを発揮していたのだった。彼らはマーサが、彼女にとって強力であるようなスタイルで働くのを放っておいたのである。(略) しゃべることはマーサのスタイルではなかった。そして他の連中はそのことを知っていた。だから彼らは彼女を放っておいた。これもリーダーシップなのだ。
(p.12 第一章 リーダシップとは、結局のところ何なのか)
ワインバーグは個々人が能力を発揮できるようにすることが、例えば、マーサのように皆が議論に熱中しているときには黙っているが、議論が一段落した後、核心をついたセリフで問題解決に結びつけた時、それこそがリーダーシップであり、マーサのやり方を認めた他のメンバーもリーダーシップがあったと説く。一方著者は、マッキンゼー流に積極的に役割を引き受けよ、会議で黙っているのはいないも同然であると説く。リーダシップの発揮の仕方の表現や概念は異なるが、組織は成果を出すために作られたものであり、その成果を出すために全員がことに当たり、役割を引き受けることは共通している。

和を持って尊しとなす

さて、日本には「和をもって尊しとなす」という言葉がある。この言葉は「成果」については触れていない。つまり、目的が「和」であり、何かを生み出すためのものではないと捉えられてしまう。
その言葉が作られた時代、他国からの侵略のリスクが小さい島国においては、農耕の推進や国の基盤強化の上で、協調性の欠如は明確なデメリットであり、協調性を図る概念を表したこの言葉が、国を平定するために必須であったと解釈している。
時代が流れてその「和」が組織の目標であり成果だとすると、そこで発揮されるリーダーシップは、揉め事を起こさないことや意見の統一のために発揮されるのであり、何かを生み出すことには使われているように思えない。
「和をもって尊しとなす」の概念は組織におけるリーダーシップを阻害する呪縛として機能しているのではないか。

リーダーシップから生まれた本

いずれにせよ、本書は論旨明快で読み易く、理解し易い。著者が本書の帯にある「地頭」もあり、「論理的思考力」もあるのは明確である。しかし、何より、それよりも「大切なもの」、つまり、著者が日本の危機感を自分のこととして引き受け、できるところから日本を変えようという「リーダーシップ」を発揮したからこそ本書が生まれたように思う。

(2013/3/29追記) 長いので見出しをつけた

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