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2022/02/27

「ヤンキーと地元」打越正行著

先日のニュースで、警察官がオートバイに乗った若者と「接触」して、若者の右目を失明させるという事件が発生したというものがあった。その警官の「接触」行為に対し、若者たちが、沖縄警察署(沖縄市)を囲い込み、ときには投石したというもの。彼ら若者たちは、「接触」に異を唱えるため、事件を有耶無耶にさせないため、警察に抗議するにはこうするしかなかったんだろうな、というのがニュースを見たときの感想で、この本を読んだ今も変わらず、さらに確信を強めました。

沖縄のヤンキーの敵は「警察、教師、ヤクザ」とこの本に書かれていたというこの事件に触発されたツイッターを見て、あ、そうだこの本は読んでおかなければと、急いでアマゾンで注文した次第です。(画像をクリックするとアマゾンに飛びますが、アフィリエイトは仕掛けていません) 

警察の見えないところでの暴力行為は、この本にも記載があるけれど、

時に暴走族少年らはパトカーに追突され、捕まった。パトカーに押し込まれた彼らは、警官に激しい暴行を受けた。取調室でも、顔以外の部位に殴る蹴るなどの暴行を受けた。

さもありなんで、高校の頃にも夜中に友人の家へ通じる袋小路に逃げ込んだオートバイの少年が追いかけてきた警官たちにかなりの暴行を受けているのを2階の窓から見ていてたことを友人が興奮気味に語っていたのを思い出します。

笑ってしまったのは

二十歳過ぎの地元の先輩たちはギャラリーとして見物し、後輩たちの暴走に「気合が入っていない」と判断すると、自ら一一〇番して警察を呼びつけて、その場を盛り上げようとした。(p. 30)

敵であるはずの警察を手球を取るように呼びつけるなんて、先輩!

沖縄のヤンキーの敵であるとされている「警察、教師、ヤクザ」は、彼らを理不尽に扱う者たちです。一般市民的には彼らヤンキーは社会に対してあからさまな敵意を見せることがないので(あるいは少ないので)、社会生活を営むうえで脅威となる存在ではないです。とはいえ、先輩から後輩、女性(妻や彼女)に対する暴力行為は認めませんけどね。

2021/09/10

沖縄島建築 (監修・写真:岡本尚文、建築監修:福原朝充)

近代から現代にかけての沖縄の建築物とそれにまつわる人びとの物語をセンスよくまとめた本。または、沖縄の特徴的な気候、気象、地形、景色、歴史、人々の気質を感じさせる建築を選りすぐった本とでも言ったらよいでしょうか。

所在地の住所、参考文献が丁寧に記載されているので、この本を手始めに現地を直接訪れたり、あるいは、書物から広がる沖縄の建築探訪の旅に出ることもできます。他所の地域に似ているようで似ていない、気だるい空気感の漂う沖縄の建築を何故か気になりかけている人が最初に手にとってみるにはうってつけの本です。

====

そう言えば、「琉球の住まい」(Amazon)などの著者である福島俊介先生が先日お亡くなりになられた。この本で、沖縄建築の特徴の一つに石造、石灰岩による建築があると指摘されていて、目からウロコが落ちたことがある。ウロコがあったんやな、僕の目。

首里城を始めとする各地に残る城(ぐすく)の城壁、道路(石畳)、橋、台風から建物を守るための石垣などに見られます。また、木材がそんなに豊富ではないため、石灰岩の活用は自然なことであったようです。

画像は南城市垣花の石垣。道路拡張のカーブに合わせて石垣を積み直したと思われます。 取り壊しも多い中、時代に合わせて生かしてくれていることにとても感銘を受けました。



2020/09/09

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。 ~コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする~ カレン・フェラン (著), 神崎朗子 (翻訳)

入手したのは文庫版である。

経営コンサルタントが、組織改革を行う仕組みというのは「観察→仮説→実験→検証」という科学のステップを踏んでいないことがよーく分かる。

観察と仮説は頭の良い人、例えば、企業戦略のあるべき姿を示した「競争の戦略」著者マイケル・ポーターなどが行い、経営コンサルタントはそれをあなたの組織に導入する。実験と検証はどうするのか。へへ、実験と検証はあなたの組織で行われるのです。いやーコワイ。

著者は、組織は人間で構成されているのだから、コマのように扱うのではなく、人間本位に、人間にフォーカスしろという。

我が職場でも、一般社員研修、管理職研修など年2回ほど外部から講師を招いて研修を行なわれているが(嫌々参加しているが)、ここで出てくるキーワードが頻繁に出てくる。目標による管理、成果による評価、コア・コンピタンス、360度方位評価、SWAT分析、スキルの標準化、パフォーマンスの最適化、KPI、などなどなど…。もちろん、研修には良い面もあって、普段なかなか同僚たちの考え方を知る機会もないのだが、研修では面と向かって話さざるを得ず、得てしてその人物がどのような考え方をもって仕事をしているのかわかるのはいい面である。しかし、著者は人物理解そのものが目的の機会をつくればいいと一蹴する。

ちなみに、日本語訳はこなれていて読みやすいし、引用文献は日本で出版された書名を出版社名付きで記載されているし、日本語化にあったてよく配慮されている。

気になるフレーズを引用しておく。

これ以上、職場から人間性を奪うのはやめるべきだということ、そして人材のマネジメントさえできれば、あとはすべてうまくいったも同然ということだ。(p.21)

(戦略は)計画を建てる過程にこそ価値があるのだ。(p.59)

守るべき計画を建てることがゴールではなく、自社の持つ能力を生かし、目まぐるしく変化する世の中に対して的確に対応するための知恵を身につけることを目標とするべきだ。そうすれば、眼の前にさまざまな事業機会が現れたとき、それが絶好のチャンスなのか、そうでもないのかを、社員が自分たちで見分けられるようになる。(p.60)

クライアントが最もやってはいけないことは、コンサルタントを雇って、自分たちの代わりに考えさせることだ。(p.303)

 

 ですね。


2020/03/08

「ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在」山内一也著

ウィルスとはなんぞや、に歴史から科学的見地、トリビアまで網羅した本です。
筆者はウィルス研究五十年、天然痘、牛痘の両方の撲滅に関わってきた世界でも稀な研究者らしい。
1931年生まれ、御年今年で89才ですよ。
雑誌への執筆が2017年だから87才で書き上げたことになります。
どこからこのバイタリティ、知的水準の高さの維持を得ているのでしょう?

ウィルス研究の界隈を網羅するだけでなく、ウィルスにまつわるトリビアにも事欠かきません。
例えば、天然痘ワクチンを子供の腕から腕へ植え継ぐ種痘が義務化されたイギリスでは、違反者には罰金が待っていたのがきっかけでワクチン反対連盟が結成され、反ワクチン運動の始まりとなった、
海中のウィルスに含まれる炭素の総量は2億トン、
なんてね。へぇーって感じでしょ。

ウィルスは生物か?
本書の説明で、思いついたのは植物の種。
種をテーブルの上にぽつんとおいておくと、一年経ってもちょっと表面が乾燥したかな?くらいが関の山でほとんど変化もしないでしょう。
しかし、ある条件、例えば、日光、気温、水分、土壌などが揃うと種は発芽して、環境が良ければそのまま茎や葉を伸ばして成長していきます。
ウィルスも植物の種と同じく、通常は不活性状態にあって活動らしき活動は見当たりません。
ただ、ある一定の条件、相性のいい細胞との接触があると、オートマトン(自動人形)のように活動を始めます。
ウィルスが細胞内に入り込むと、細胞内で一旦ウィルスは分解されますが、これは次のステップへ跳躍するためのしゃがみこみです。
分解されたウィルスが放出したDNAやRNAの設計図に従って、細胞は細胞内の酵素を使ってタンパク質や核酸を大量に合成させられ、そのタンパク質と核酸からウィルスが組み立てられます。
子ウィルスの誕生です。
大量の子ウィルスが細胞を飛び出していきます。
1個のウィルスが5、6時間後には1万個を超す子ウィルスを産出するらしいです。すごいスピード!
本題に戻って、ウィルスは生物か?の問いには、まず生物の定義を明確にする必要があります。
定義はいろいろとあるらしく、「複製と変異が可能なシステムは生きている」 (ソ連の生化学者アレクサンドル・オバーリン)や「増殖、遺伝、変異の性質を持つ実体」(進化生物学者ジョン・メイナード・スミス)だと、ウィルスも生物と定義されるようです。
変異は動植物で言えば成長や老化と置き換えられるでしょうか。
ただ、ウィルスは単独では増殖できません。
ここが生物かどうかで意見が分かれているポイントのようです。

単行本には雑誌の連載に加筆されたコラムが載っていますが、豚コレラの騒動に関し、筆者は次のように述べています。
 多くの国でウィルスが常在しているにもかかわらず、自国内にはウィルスが存在しないことを示して「清浄国」の認定を受け、貿易上の優位性を得るためにワクチンの接種を中断する。現代社会が生み出した養豚社会は、経済優先という、科学的には理解しがたい脆弱な基盤の上に成り立っているのである。(p. 226)
「経済優先」「科学的には理解しがたい脆弱な基盤」という視点は、昨今の新型コロナウィルス発生における今の日本政府の対応に全く呼応しますね。しませんか?

ウィルスって何っていうときには、やや硬いかも知れませんが、この本はおすすめです。

2020/02/27

「南の島の学級日誌―高校生と先生のマジメでユカイな対話集」砂川 亨著

沖縄の進学校、昭和薬科大学附属高等学校の先生が担任を受け持った高校3年生のクラスのみんなと交わした「学級日誌」を本にした。
「南の島」とタイトルに付くのは出版社が沖縄県外への販売を意識しているのでしょうね。
(画像をクリックするとアマゾンに飛びますが、アフィリエイトではありません)

著者で先生(担任)が学級日誌を始めるにあたって、日直は日誌に16行の8割以上の何かを書く、先生は生徒にが書いた分量以上、つまり最低でも300文字以上のコメントを必ず書く、という約束をする。
「日直は必ずスペースの八割は埋めること。サボった者は翌日も日直!」
「私も必ずコメントを返す。君たちは日直が回ってくる二ヶ月一度書くだけでいい。私は毎日、しかも君たち以上の量を書く」
日誌だから、学校のある日は原則毎日である。
結構しんどいとはずだけど、先生がやり遂げるから生徒さんもついて来たんだなと思ったし、実際、先生も意図があると書いている。
でも、この先生、日誌を読み終わると同時に書くべきコメントが頭の中で全文完成していて書くときは頭の中のそれを書き出すだけ、書くのにかかる時間は10分程度で仕上げているとのことで、文章を書くときコピペができないと泣きそうになるくらい四苦八苦している私にとって、この能力はうらやましい。

ある日の日誌に「人生にモテ期は3回存在する」という命題に、実は重解や虚数解があって、1回または1回も実在しない人もいるのでは? という会話が交わされているのは、解が3つあるのに二次関数を引き合い出すとはこれ如何にと思いもしたけど、驚きの発見を瑞々しい文章で描く才能と日々の勉学と生来のユーモアが融合していて、読んでるこちらも楽しくなる。

ともあれ、高校3年生の背伸びしているようなどこかかしこばった表現が愛らしいし、ときには意表を突く鋭い問いかけがあったり、対する先生も、生徒の投げかける疑問から敷衍してもっと先の向こう側にある何かを見せようとコメントを工夫をしているところに感心する。

それに、この本、クラス全員が登場するように気をつけている。
これは生徒たちにとって若い頃の自分が本に登場するのであるから一生の宝物になるに違いない。

好きなところをかいつまんで読んでもいいし、あっという間に読める代わりに、あのころの素直な感情に触れることができるので、まずはお手にとってはどうでしょうか。


2019/06/25

FACTFULNESS(ファクトフルネス) - (著)ハンス・ロスリング , オーラ・ロスリング, アンナ・ロスリング・ロンランド, (翻訳)上杉 周作 , 関 美和

サブタイトルは「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 」です。
この本の内容そのまんまですね。

2019年1月の出版で2月ですでに8刷目、100万部超の販売ということなので、普段は本を読まない人も手にとっているだろうと思われます。

「ハコモノ」「炎上!」とか自然な日本語になっている訳もとてもいいです

でも、まだ読んでないし、筆者たちも知らない、という方は、筆者の一人、ハンス・ロスリングがTEDで行った講演を見てもらえるとよくわかります。



この本は、TEDでの講演のいくつかをさらに幅広く深く、ハンス・ロスリングの人生における印象的な出来事を交えながら進んでいきます。

知的な職業に従事する大勢の人たちへのアンケートで、チンパンジーより低い正答率(3択だったら33%以下とか)しか得られないのはなぜか?
筆者らは、偶然の確率より低い正答率は何かしらのバイアスがかかっていると考えるべきでしょう? まずはデータを見て真実の姿を捉えましょう、と訴えます。

全般的に面白かったのですが、先日、沖縄では慰霊の日を迎えたことだし、特に印象に残った渾身の教訓的文章を引用しましょう。
歴史を書き換えてはならない
 歴史を美化すればするほど、わたしたちや次の世代の人たちが、真実にたどり着けなくなってしまう。悲惨な過去について学ぶのは気が滅入るかもしれないが、真実を知るためには避けて通れない。
 過去をきちんと学べば、昔に比べたら、いまがどれだけ恵まれているかに気づくこともできる。そして次の世代はきっと、前の世代と同じように、たまには一歩後退しても、長い目で見れば平和、繁栄、問題解決の道を歩むことができるはずだ。(p.92 第2章 ネガティブ本能)
この本を読めば、多少問題はあっても、世界はここ数十年で急速に良くなっていると確信を持てますよ。ただし、まだ最貧にとどまる国や戦闘地域に住まわざるを得ない人々を除いては。

あっという間に読み進めて「おわりに」に辿りついて、急転直下の場面転換、衝撃を受けたことを告白しておきます。

2017/06/25

「認知症の私は「記憶より記録」」 大城勝史著

沖縄タイムスのクラウドファウンディング(こちら)で出版が企画されていたもので、実際に出版の運びとなりました。
アマゾンからも入手できるようです(こちら)。
私達家族もクラウドファウンディング告知のトークイベントを聴きに行き、少額ながら応援して、先日約束通りにこの本がメッセージカードとともに送られてきました。

普通に生活を送っていただけなら決して本を出版するなんて思いもよらなかったハズで、毎日が絶望の連続かもしれないなか、認知症に伴う壮絶な経験を糧に、「記憶のない中」で、出版までこぎつけ、その内容も確かなもので、まずはよかったよかった。

認知症もある程度まで症状が進まない限り、極端に言うと記憶面以外は普通なのですよ。
大城さんの本でも、脳内のメモリの欠落が毎日の生活に不都合を招き、しかし、考える力はちゃんと残っていて、そのなかでなんとか自ら工夫をし、ご家族、職場、支援会などのサポートを得つつ、なんとかやりくりしています。
実は、大城さんが生活を工夫する中で、ToDoリストを使ったり、Google Mapsで記憶に留めきれない場所=知らない場所を探索したり、習慣化している行動は間違えなかったり、脳の活動には一定の休息が必要であることを示したりすることは、 健常者がライフハック的に行っていることと変わりはないのです。それが気が向いたときなんかではなく生活の上で必須であることが違いと言えば違い。でも大違い。

私の場合、私の母親が認知症になったことをきっかけに、

「認知症になった私が伝えたいこと」佐藤雅彦著

を読んで認知症患者の感じ方考え方を知り、認知症への考え方を新たにしました。
この佐藤さんと同じように、認知症のことを公にし、社会に何かしらの影響を与えようと行動する大城さんの姿に敬意を評したいと思います。ああ、たぶん一番にサポートしている奥様も自然体でエライですよ。

大城さんのブログはこちら。
記憶より記録

2017/06/14

「鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。」 川上和人著

この本は、疾走感あふれる音楽のような語り口で鳥類学者の生態を明らかにしているというものであります。

大学一年の講義中に読んで可笑しさのあまり隣の席の同級生に読んで聞かせようとしてしまったジャズピアニスト山下洋輔の「ピアニストを二度笑え!」(amazon)や、雑誌CDジャーナルの連載を単行本化した音楽学者野中映の「名曲偏愛学」(amazon)を読んだときに感じた可笑しさと同時に尊敬を感じる本で、そうそうありません。
3人の著者の共通点はその道のプロフェッショナルがその職業に関する経験と知識をベースとして幅広い視点から言葉を紡ぎ出してくるところにあります。しかもそれが可笑しくも馬鹿馬鹿しい(ホメてます)。
もし朗読したとすると、聞き手が展開の速さについていけないであろうというころも共通していて、目で読んで初めてそのアイデアと文章力に驚きつつ笑いをこらえきれなくなるというものです。

以前の2冊がより面白いというレビューもあり、これらも手に入れねば。



2017/05/23

「ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室」キャスリーン・フリン (著), 村 井理子 (翻訳)

タイトルは挑発的ですが、料理ができない「ダメ女たち」に焦点を絞ったわけではなく、「料理ができない人」を男女問わず募ったら、女性だけが応募してきたというものです。いや、一人だけ男性がいたが直前にキャンセルしてきたのでした。この男性が参加していたら、もっと「料理ができない人」の考え方や振る舞いの描写に深みと広がりが出たかもしれません。

料理ができないと言っても、料理をいくらやっても上手にならない、というわけではなく、料理ってどうやったらいいのかわからないといった人たちが参加してきます。彼女たちに立ちはだかる料理の壁は「包丁」と「火」です。
「包丁」と「火」の扱いについてちょいと手ほどきを与えたら、教室への参加を重ねるうちにあれよあれよと料理上手になっていきます。
ひとりひとりの変化の具合が個性豊かに上手く描写されていてその中の誰かに自分を見つけ出すかもしれません。
女性たちと料理との関わりが縦糸とすると豊かな食生活とは何か? が横糸となって物語が進んでいきます。

教室が終わった後の追跡もしっかり行っていてほとんどの人は得意料理を見つけ、料理人生を謳歌していますが、ただ一人だけどうしても料理に興味を持てなかった人が一人います。否定的な要素ではなく、却ってこの本にリアリティを与えています。人類皆が料理好きではあるまいし。

私もこの本のおかげで、野菜を炒めるためにフライパンに投入するときは、野菜がフライパンにくっついて焦げないようフライパンを振って野菜を油でコーティングするということを学んで、試行錯誤しながら実践しています。

男女にかかわらず料理好きが増えたらいいですね。

# 出版(2017年2月)と同時に買い求め、あっという間に読んで今頃になって記憶だけで書いてみました。

2017/03/19

「アイデア大全」読書猿著

ツイッターでフォローしている方の新著。
アイデアをひねり出す人類の知恵を集めた本。
自己啓発セミナーのネタ本としても使えるのではないですか?

各アイデア毎にレシピ(使い方)、サンプル(例)、レビュー(評価他)という構成からなっているので、それぞれをピックアップしてピンとくるアイデアだけを読み込むという使い方も可能です。

サブタイトルに「創造力とブレイクスルーを生み出す42のツール」とありますが、この本をめくってアイデををひねり出す方法を見つけることが、実は「43番目のツール」として有効に思えたので、シャレで43番目として載せても良かったんじゃないかなぁ。
画像のように表紙は黄色くって、主張が強いのですが、中も黄色いのですよ。
個人的には嫌いじゃなくて、すぐになじみました。
ただ、どこから眺めても黄色というのは、カワイイ欠点となることもあって、先日の出張のお供として携行した際、どんな本を読んでるか悟られないようにブックカバーをしていても、文字が判別できないくらい遠いところからでも、この本のことを知っている人にはバレてしまう! ということに気づいてしまったのでした。

2016/10/05

「戦争は女の顔をしていない」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、三浦みどり訳

英語題は、"WAR'S UNWOMANLY FACE" で直訳すると「戦争の女らしくない顔」
戦争には男の側の顔と女の側の顔があるけれど、女の側でない側面を、独ソ戦に参戦した女性兵士への多数のインタビューにより明らかにしていくというもの。
原題(ロシア語)は"У ВОЙНЫ НЕ ЖЕНСКОЕ ЛИЦО" らしいのだが、英語に訳すると "War Does Not Have a Woman's Face" と 「戦争の女性の顔はしていない」と日本語題と一緒。英語訳のときにタイトルを変更したんだな。英語題が意味深で良いように思う。

多数のインタビューににより、決して一括りにできない個々の人生にもかかわらず、ある共通項「悲劇」を浮かび上がらせているようである。インタビューではひとりひとりの人生がひとりひとりの言葉で反芻されており、飽きずに最後まで読み通してしまった。

ドイツとの開戦の報を聞いた女性、しかも10代を中心とした彼女たちは、ソ連の危機に際し、自ら志願して、あるいは、潜り込んでででも前線に行きついてしまう。志願してきた若き女性たちを前に男性兵士や幹部は一様に困ってしまっている。
中にはとても優秀な狙撃兵やパイロットもいるのですよ。
当初、なぜ女性が前線に? と合点が行かなかったのだが、ソ連体制のなか、男女平等が徹底されていたことがその最大の要因らしいとあとで知る。
つまり、教育である。
教育について触れているのは一人くらいで、そこはインタビューされた女性たちの反省の材料ではなかったらしい。
教育って受けてみるまでは無知なので評価ができず、三つ子の魂百までなのがつらいところ。

著者は2015年にノーベル文学賞受賞。
訳者はその報を待たずに他界している。
これだけのインタビューを行うだけでも大変、それを文章に起こすだけでも大変、まとめるのはなお大変、出版するのはもっと大変だったらしく、著者も訳者も執念で出版にこぎつけたことが訳者あとがきから伺える。

ともあれ、オススメです。

2016/08/24

「The Pacific」

ThePacificIntertitle.jpg米国海兵隊の3人の主人公を軸に太平洋戦争の何たるかをテレビドラマに仕立てたもの。
スティーブン・スピルバーグとトム・ハンクスが総指揮のメンバーとなっている。
夏休みの宿題として称してDVDを借りて見た。

銃弾の曳光弾のスピードのリアルさや(見えるけどよけられない速さ)、弾が当たるかどうかは運でしか無いという理不尽さ、死んだら英霊なんかではなく敵でも味方でもない、ただの腐り始める物体でしかないなど、戦争の無意味さを知るにはうってつけだと思う。

このTVドラマは、主人公のうちの2人、ユージン・スレッジの「ペリリュー・沖縄戦記」とロバート・レッキーの「Helmet for My Pillow」の著書をベースとしている。
ユージン・スレッジの「ペリリュー・沖縄戦記」に関しては
「ペリリュー・沖縄戦記」ユージン・B・スレッジ著
で書いた。
一方、ロバート・レッキーの著書を
「Okinawa: The Last Battle of World War II」Robert Leckie著
で読んでいたことを後で知った。ロバート・レッキーは沖縄戦には従事していないので、この著書は記録的な書き方にとどまっている。「Helmet for My Pillow」を探し出して読んだみたい。
もう一人の主人公であるジョン・バジロンは硫黄島の戦いで戦死したので、本人が記録したものはない。
ユージン・スレッジの著書は敵味方関係なく、戦争のむごたらしさをあまねく記載した点でお奨めする点は今も変わらない。

このTVドラマの第9話 "Okinawa" の中で、沖縄住民を「Okinawan」として「Jap」「Japanese」とは区別していた。日本領になった太平洋の西側の島ぐらいの認識だったのだろうか。
あと、黒人兵士が一人も出てこないのは気になった。いたとすれば、ユージン・スレッジの豪邸の家政婦だけである。当時、黒人兵士は火炎放射器等の危険な任務を従事していたはずで、制作陣などの白人至上主義が現れたのかと思った。
それ以外は、美談よりもリアルさを出来る限り追求したドラマになっていたと思う。
米国側から見た太平洋戦争全体を伝えるものとしてお薦めできると思う。
もし、日本で日本側からみた太平洋戦争全体を伝える美談抜きのドラマが作れるのなら、それは凄いし素晴らしいことだと思う。
しかし、飢餓や玉砕にまみれた恐ろしい物になるのかも知れない。できるかな?

最後の第10話のエンドロールで登場人物のその後を淡々と伝えるのだが、鬼籍に入っている人がほとんどで、戦争で運良く生き延びた人もいずれは死ぬのである。それならば、戦争なんかで本人の意志や心の準備なんか関係なしにアッという間に死ぬより、本人の生きたいように生きさせるべきだと思うのだが、そうは思わない人々も多いようで途方に暮れる。


2016/06/23

「奴隷のしつけ方」(マルクス・シドニウス・ファル著、ジェリー・トナー解説、橘明美訳)

これもジュンク堂で見かけて購入。
奴隷は、単なる道具、あるいは資産の一部である。
働いたら負け、それは奴隷にやらせておけ。
富裕層と貧困層、経営者と労働者の関係など、ローマ人を引き合いにしつつ現代の格差社会を皮肉ったものかなと思ったら、ローマ時代に関する文献をベースとして奴隷のしつけ方を時空を超えて架空の著者に語らせた割と真面目な本だった。

さて、この本を読むにつれて、私はこう考えた。もし、私がローマ時代に生まれていたら、ローマ帝国に侵略された国の民で奴隷であったのではないか。単に出自という観点から見ても、沖縄は日本のマイノリティ、日本というのは世界のマイノリティである。主人側であるという立場が想像できないのね。
なので、奴隷アリの目線でこの本を読んだ。負け犬根性ならぬ奴隷アリ根性である。

奴隷アリというのは、サムライアリ(Wikipedia)に狩られるアリの仲間のことである。
サムライアリと奴隷アリの場合、主従の関係が入れ替わることはないが、人間の場合は違う。
本書にもあるが、ギリシア時代の「ギリシア人(=自由人)以外はほぼ奴隷」という考え方を持っていたらしく、時代が下がってローマ時代の主役であるローマ人はギリシア時代のローマ人も奴隷だったことは理解していたらしい。
サムライアリとは違い、人間社会における奴隷は相対的なものという当たり前のことを考えたわけである。

解説というかリアルな著者によると、ローマ時代の記録が残っているのは特別なことだから記録されたのであって、そこに書かれていないことこそがその当時の一般的なことである、という視点から当時の生活や奴隷への接し方考え方を推測している。
犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる。
なぜ、ニュースになるかというと、それが普通では無いから、逆に普通とは書かれていないこと。

この見方は、ニュースを読む際にも適用すると参考になりますね。

この時期にこの記事が出るのはなぜか、なぜ今なのか。
とは言え、裏読みし過ぎると却って本質を見誤ることがあるので可能性を捨てない程度に止めておいたほうがいいかもしれません。



総じて、この本のコンセプトが勝利したのは、文献の読み込みに裏打ちされた信頼性があるからこそだと思いました。

(今気づいたけど、社畜というのは奴隷以下家畜並みということだな。 )

====

今月はこの記事を書くのに時間がかかった。
中身にあまり変更はないのでがしっくりこなかったので。

そういえば、今日は慰霊の日であった。
職場では12時から1分間黙祷することになった。

2016/05/19

沖縄彫刻都市 (尾形一郎、尾形優 著)

サブタイトルは
「沖縄はなぜコンクリートブロックで溢れているのか?」
「建築から見たもう一つの沖縄戦後史」
でとても適切。

ジュンク堂でたまたま見かけて値段も見ずに購入。
案外高かったが、戦後、雨後の筍のように発生し今も生存し続けている沖縄のコンクリートブロック建築に興味がある人には面白い本に仕上がっている。

戦後アメリカ軍が持ち込んだコンクリートブロックで彫刻を行う能勢孝二郎氏の作品から物語を導入していき、戦後のコンクリートブロック建築が沖縄に普及していった過程を追いかけるといった風。
英語での要約もついているのでちょっとした沖縄建築の紹介にも使える。
コンクリートブロックそのものへの彫刻というオリジナリティと、コンクリートブロック建築が織りなす他にない彫刻然ととした佇まいを合わせて彫刻都市と呼んでみたようだ。
コンクリートブロック建築に関する記述では、沖縄に対する異邦人としての視点もからめて、コンクリートブロック建築の自由さを他の地域にはない特徴として描いているのが面白い。また、沖縄工業高校が、戦後すぐの人材不足の中、工業高校そのものの目的である速やかに技術を身につけて世に出すことを地で行い、建築関係者排出の孵卵器として役割を果たしたなどを例として、戦後沖縄の建築史が分かりやすく記述されていてこれも面白い。
著者は親子と思われる2名なのだが、内容の時間的スケールからみて、前半が子、後半が親の執筆だろうか。

沖縄は「石灰岩文化」と定義した「琉球の住まい」(福島俊介著)(amazon)があり、沖縄の住宅をその集落や歴史から捉えた本として今読んでもとても良い本だと思うが、「沖縄彫刻都市」は沖縄の石造建築の歴史を踏まえつつ、コンクリートブロックとコンクリートブロック造の建築に対する著者の情熱を冷静な文章で綴っているように思えた。

もっとも、現代の沖縄では、コンクリート造(RC)による建築が主で(我が家もそうだ)、木造は相変わらずほとんど造られないが、コンクリートブロック造(RCB)の家の建築数も以前ほどではない。RCが主流な理由は、RCBよりデザインが比較的自由に出来ること、その自由さを活かしたモダンなデザインを行える建築家が多くなってきたことにあるかと思う。RCBは昭和の遺跡といった感も個人的にあるが、RCBも、RCBの上からモルタルを塗らずにRCBであることを表面から隠さず、そのレゴのような規格的側面を表に出してモダンな設計に変化しつつある。
また、同じ琉球諸島の中でもRCBの家が沖縄には多く、奄美大島では木造建築がメインであるのは台風だけが理由ではないのでは? と問うが、奄美と沖縄では台風の影響はかなり異なるように思うし、現地で木造住宅を見ると沖縄では台風で吹き飛ばされそうな家が何十年も残っているのはそれを裏付けるものではないかと思う。





2016/02/08

「選択の科学」(シーナ・アイエンガー著、櫻井祐子訳)

朝目覚めたときそのまま起きるか、または、二度寝を決め込むかどうか、夜眠くなったとき仕掛中の仕事を続けるかどうか、あるいは、そのまま眠るかどうか。
朝起きてから夜眠るまで、なんでもないような日常生活も選択の連続である。

ジャムの種類が多すぎるとお客は自分で何を選んでいいかわからなくなり、却ってジャムは売れなくなる、という実験と研究を行った人。
選択肢の数が多いと、人は混乱するらしい(7±2までが許容範囲という研究もある)。

本書は理路整然としていて、それなりのボリュームがあるにもかかわらず、冗長な部分があるようには思えなかった。
養老孟司の解説の一文にもこうある。
百聞は一見にしかず、と俗にいうくらいで、目で見るとアッというまに結論が見えてしまう。いわば目は論理を飛び越す。更に目が見えると、とりあえず無関係な様々なものも目に入ってしまう。だからホワイト・ノイズも多くなる。これが著者の最初の本なのに、筋が通ってわかりやすく、よく書けているのは、全盲のせいもあるかもしれない。(p.456)
なるほどと思ったが、全盲の人が必ずしも論理性に優れているとは限らず、元々論理に繊細な人が光がないことで力を得たのかと思う。逆境を跳ね返して武器にした強い人だなと思った。


2015/10/20

「妻を帽子とまちがえた男」 オリヴァー サックス (著), 高見 幸郎 (翻訳), 金沢 泰子 (翻訳)

他人と自分が同じものを見ているようで、実はそれぞれが脳内で合成された虚像を見ているに過ぎない。何を見ているかは脳のみぞ知る。
一体何がおこっていたのだろう? 失語症病棟からどっと笑い声がした。ちょうど、患者たちがとても聞きたがっていた大統領の演説が行なわれているところだった。(p.158、9 大統領の演説)
言葉の意味を理解できないが、表情や身振りから意味を汲み取ろうとする失語症の患者と、声の抑揚、調子、音色、性質などを把握できないが、言葉の厳密な意味のみを受け入れる音感失認症の患者が、テレビで大統領の演説を見て、これは嘘だと笑っている。
その一方、いわゆる健常者は大統領の見事な演説とパフォーマンスに酔いしれている。
果たして真実を見抜いているのはどっちだ?


犬や猫がよく臭いを嗅ぐのはどうしてだろう?
ある日、薬のせいで異常に嗅覚が鋭くなった医者の卵は、臭いの世界の芳醇さを懐かしがり、臭いこそが、そこにそのものがあったという実態のある世界だという。
しかし、臭いは、彼にとって単なる快不快の問題ではなく、美意識や判断に影響を与える重要なものでもあった。 「きわめて具体的な世界でした。個が重要だったのです。ひとつひとつがおそろしく直接的で、すべてを生で感じるんです」と彼は語った。以前はどちらかといえば知的で、あれこれ考え、抽象化したりするほうだったのに、いまや、個々の経験が持つ直接性にくらべたら、考えたり抽象化したり分類したりすることは、なんとなく難しく、真実味がないように思われた。(p.286、18 皮を被った犬)
嗅覚は視覚より直接的なのだ。

マジョリティである健常者が見抜けない大統領の嘘をマイノリティである患者たちが見抜いている。 ところで民主主義は議論を重ねてより良い選択を行うものだと信じたいが、現実は相容れない主張に決着を着けるべく多数決を採用している。多数決の欠陥を補うために「マイノリティの意見には傾聴すべき」だと言われるが、「大統領の演説」は、必ずしもマジョリティが正しいことを意味せず、マイノリティの意見が時には真実そのものであることを示唆しているのだと思う。

解像度の高い視覚を手に入れ、抽象化された世界を手に入れる代わりに、嗅覚がもたらす直接的な経験を失ったのが現在の人類なのではないか。犬や猫や他の嗅覚を大事にする動物の気持ち(本能)が少しは理解できた気がする。

この本を読んでそんなことを思ったのでした。


2015/09/11

「風をつかまえた少年 - 14歳だったぼくはたったひとりで風力発電をつくった - 」ウィリアム カムクワンバ (著), ブライアン ミーラー (著), 田口 俊樹 (翻訳)

以前にTEDでのアフリカの少年の講演を紹介したことがある。

TED 2作 (少年たちのアイディアと実行力)

このうちの風力発電を作った少年の物語が文庫本になっているのを見つけたので、機内の暇つぶしに買って読んでみた。

いや、よかった。
アフリカの少年の成功物語かと思いきや、もっと厳しかった。

マラウイというアフリカ中部の聞いたこともないような小さな国の、アホな大統領の失策や雨が降らないという気候のイタズラが重なって、国中が大飢饉で死にかけるという過酷な環境下で、その飢饉を発端とした貧しさ故に中学校に行けなかったウィリアム少年が、向学心から図書館に通い続けた末に「物理学入門 - Explaining Physics」と「エネルギーの利用 - Using Energy」という本を手にした時から人生が変わって行く、という物語。
風車が、井戸の水を汲み上げれば飢饉に耐えられるし、電気を起こせば豊かになることを理解したウィリアム少年は、もう迷わない。

まぁね、やってることは簡単だ、という人もいるかもしれないが、風力発電が動くところを見たことも、中学レベルの教育を受けたこともない少年が、英語の本を読んで理解し、周囲の嘲りに負けずに屋根より高い風車を廃品利用のオンパレードで建てるなんて、簡単じゃないよ。
風車は写真から想像できたかもしれないが、電鈴の仕組みを利用してブレーカーを作るなんて、なんて、なんて凄いのだろう。

本から知識を吸収する。
推察する。仮説を立てる。
材料を集める。
道具を作る
加工する。
知識を形にする。
笑われても気にしない。

彼の凄いところは次の一文に言い表されていると思う。
「ここまで厳しい環境だとはね。僕の想像を超えていた」とライリーさんは言った。
ぼくとしてはただ苦笑するしかなかった。彼にはまだ飢饉の話もしていなかった。 (p.437)
この本を通して彼を見てると、出来ない言い訳、やらない言い訳なんて成立しないな、と思う。

彼の物語は、何か、物とは限らない何か - 例えばこのblogの記事 - を作ることに行き詰まった時の私の師匠になる。

William Kamkwamba Official Blog

2015/04/06

「Made by Hand」マーク・フラウエンフェルダー著 (金井哲夫訳)

家の中を片付けていたら、読んでないことに気づいて、ちょうど読みたい本も切れていたので、読んでみたら、もっと早くに読んどけばよかったと気づいた次第。
10年前から「とりあえず動かなくったり調子が悪くなっても買い換えずにメンテナンス、できれば自分自身でメンテナンス!」に目覚た自分にピッタリの本。

DIYをやるには、「失敗したらどうしよう?」「間違うのは恥ずかしい」「一から習うのは面倒臭い」などといった心理的障壁や、騒音、埃、モノや工具類の置き場所の確保など、家屋の制限からくる物理的障壁が立ちはだかるというと思うけれど、この本は心理的な面から背中を真っ直ぐに押してくれる。
心理的な障壁を解消できれば、物理的障壁はそれこそ「DIYで解決できる」ので、心の壁をいかに取り除けるかが優先されるのである。

著者は雑誌「Make:」の編集長であるが、DIYの好きが高じて「Make:」を作ったのではなく、取材する中でDIYの世界に引きずり込まれたようだ。
次の一文は本書のなかで引用された文の引用だけれど、
「何度も何度も失敗すること」で初めて、優れたDIY愛好家は心の工具箱を揃えることができるのだと。
「心の工具箱」っていうのはいいな。

考えてみれば、子どもへの教育的効果も狙って、雑誌「Make:」を思い出したら買う、思い出したら買うを繰り返して、数年間かけてやっとこさ出版済みの12巻を揃えたので、この本を買うのは必然だったのかもしれない。
いやいや、自分では全巻を揃えていたつもりが、1号(♂15才)がこの間「5巻が無いよ」と指摘してきて、「お、ちゃんと読んでるんだ」と嬉しく思い、自分の思い違いを素直に謝ってアマゾンさんにお世話になった次第。

本書も「Make:」の5巻も、忘れていたものがどこかからひょいっと飛び出してくるのは、感情と記憶に何かしらの跡を残していく。
そういう出会いって、案外面白いかもしれない(忘れてたことへの言い訳)。


2015/04/02

「データの見えざる手」矢野和夫著

きっとタイトルが英訳されたら "An invisible hand of data" になるのだろう。
副題は「ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則」である。

2つのウェアラブルセンサ - 腕の動き検知するウェアラブルセンサとネームカード型で対面者と面会した事実を検知するウェアラブルセンサ - のデータを長時間のログ(記録)を取ることによって見えてきたものがある、それは…、というのが著者の主張。
長時間ログはすなわち大量のデータの発生、ビッグデータとなり、その中から意味のある仮定と検証結果を出してきたのが功績。
腕の活動の状態がU分布と呼ばれる指数分布の一種に則っているというのは面白い。
集中して作業して一段落ついたら、ふー、と溜息をつきながらぼーっとすることはよくあるし、長時間同じように集中するのが難しいのも実感としてある。
この本を読んでから、そういう実感を意識するようになった。1日に出来る仕事の量には限界がある。

著者のここ数年の研究活動、社会的活動を要約した本という趣で、1章ごとにそれぞれ独立した本が書けそうだと思った。

総じて面白かったのだが、あえて、「?」と思ったところを備忘録的に書いてみる。
  • 「腕の動き」がイメージしにくかった。
  • 「運」の定義に違いがあった。
・「腕の動き」がイメージしにくかった。
リストバンド型のウェアラブルセンサと書いてあるので、手首にセンサを取り付けるのだと考えたが、このセンサで「腕の動き」を計測するという。
私の「腕」のイメージは、肩から肘までの部分であり、これが手首につけたセンサで検知した動きと等価と考えていいのかな、と思ったところ。
この疑問は解消できなかったが、1次情報に当たれば分かるでしょう。

・「運」の定義に違いがあった。
縦30x横30の900個のマス目に72,000個の玉をランダムに置き、ある玉をある玉のところへランダムに移動させることを繰り返していくと、実はU分布になると書いている(p.33)。
このU分布が偏りを表しているという画像を見た時、 イメージしたのは、ビッグバン初期の物質の密度のわずかな「ゆらぎ」によって、物質が固まり合い、やがて星になってゆく様子に見えて、これはまさしく「運」だな、人生と同じじゃないかと思った。「運」は自分の力ではどうしようもない偶然という定義である。
しかし、本書では、「運」は「人生や社会で確率的に起こる好ましい出来事」と定義しているので(p.135)、必然的に人間ネットワークの広がりの大きさと距離の短さが影響してくる。
人間ネットワークは、性格、努力、行動の結果によるところがあるので、私の定義と相容れない。
で、まぁ、「運」をWikipediaで見てみると、人によって定義が違うのが分かり、これはこれで収穫であった。

2015/02/20

「認知症になった私が伝えたいこと」佐藤雅彦著

すわっ、ピタゴラスイッチの先生か! と思ったら同姓同名の別人でした。
私の実家の母親が昨年末にアルツハイマー型と血管性の混合型認知症と診断され、想像の域を出なかったこの病が突然身近になったところに、新聞に書評が掲載されているのを見て思わず購入に至った。

著者が認知症を発症してからの出来事、できなくなっていること、できること、感じていることなどなど、読み進めるうちに認知症に対する世間一般の認識と実際とのズレが、どんどん明らかになっていく。
これまで語られることがほとんどなかった認知症本人が認知症について語る、エポックメイキングな本である。

著者の書きぶりはどちらかというと誠実かつ飄々としているので感じにくいが、40代でアルツハイマー型認知症と診断され、仕事がだんだんとできなくなった頃は、本人もわけが分からず、将来の展望が見えなくなり、周囲の無理解からくる辛辣な言葉や態度はあったはずで、生き地獄だったんだろうなと思う。
しかし、彼は、一人暮らしを続けるために、このどん底から前向きに人生を切り開いていく。

著者の発症後の生活は非常に大変で現在も大変さが進行中だと思うが、発症後に新しい人生が花開いたようにさえ思えるバイタリティ、積極さ、工夫の数々に感心させられた。
もっとも、本人は大学の数学科を出てエンジニアとして活躍したのであり、携帯やタブレットなどの現代のテクノロジーを日常生活に利用しているのは、他の認知症の方々に比べ、技術的な親和性においてアドバンテージがあるのかもしれない。しかし、これからの時代の先駆けとも言える。

この本を読んでの認知症に対する私の印象は、脳内のメモリ不足が招く、短期記憶、空間認知能力の低下であり、しかし、考える力はある。ただ、キャッシュ、レジスタなどの一時的な記憶領域が不足するので考える力にも影響が出る、というもの。
それ以外は普通の人間である。
我々の社会を構成している一員にそういう人たちがいることを認知症に関わる関わらずに関係なく理解してほしい、と著者は優しくも力強く訴えている。
例えば、認知症の人に対して「徘徊(はいかい)」という言葉を使わないで欲しい、同じ地域の、社会の一員なのだから、と著者は呼びかけている。

文章は平易であり、あっという間に読み切ることができる。
しかし、読後には認知症に対する見方がころっと変わる。
そして同時に自分の偏見に気づく。

著者の期待に応えるなら社会を構成している人ならば読んでほしいが、少なくとも認知症に関わる人は誰しもが読むべき本だろうと思う。


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