2009/09/14

「うりずん戦記」上江洲安克著

第32回山之口貘賞を受賞した詩集である。

詩の心得のない私がこの詩集を手に入れたのには訳がある。
作者のお住まいが近所なのである。たしかに近所ではあるが、この地に越して4年半になるがお目にかかったことは一度もない。そうは言っても実は弟さんやお母さんとは面識もあり、お二人とも月に一度はご近所模合で顔を合わせる間柄である。その模合仲間のご近所の大先輩から、作者が賞を受賞したよと教えてもらったので手に入れた次第。
ちなみに「うりずん」とは梅雨期に入る前の初夏、過ごしやすい季節のことである。沖縄戦はうりずんの頃〜梅雨〜夏までであった。
ご紹介してみる。


悲しき背中のPW
勝者の令に起こされて
勝者の令に働きて
掘る藷(いも)すべて肥え太り
満々まんと地を充(み)たす
収穫すくなき痩(や)せた地の
めずらしき一時の大盤振る舞い

白骨の うえに肥えたり 太き藷
PWとは"Prisoner of War"で捕虜のこと。もう一編。
一人身の翁

偏屈頑固一人身の翁(おきな)
慰霊の日の近づけば
気の昂(たかぶ)りてか臭言(くさごと)を言う

曳光弾の美(うつく)しきこと
艦砲弾の美(うつく)しきこと
夜の中(うち)のその炸裂のいと美しきこと
えも言えずこの世のものとも思えずと
口角(くちかど)に泡を飛ばせてのたまわく

ただ慰霊の日より三日ほど
戸を閉じ窓を閉め切り
翁一人こもりて外に出ず
隣家の人の言うに
食せず仏壇に向かいて啜(すす)り泣くと

戸をとじて こもりし心 蝉の声
2編とも戦争で生き残った者たちを描き、そこから戦争のもたらした悲劇を見据える。
特に「藷」は教科書に載せて欲しいくらいである。敗者の悲哀と生きるための糧である藷、このやせた地での藷の珍しい豊作は生き残った者たちに恵みをもたらすが、そこには多くの屍が眠っていることを最後の一句で劇的に読む者の思考を転換してみせる。読みやすく記憶に残りやすく、劇的。もうびっくり。この一句だけでこの詩集を手に入れた価値があったというもの。

ちなみに別の詩の中にも出てくる「弟」さんから伺ったところによると、詩集の表紙裏に描かれている絵もお兄さんの作とのこと。その絵とは、「亀甲墓の入口に体を乗り入れている兵隊の足が見える、蹴散らされた線香立てと左足の靴の底、ゲートルが印象的」な絵だ。弟さんがお兄さんに描いた情景がわかるか?と問われ、よくわからないと答えたところ、お兄さん曰く、外地の戦地から戻った兵隊がようやく故郷沖縄に帰って来たが、家族一族が見あたらず、生き残りを探して一族の亀甲墓の中を慌て潜っていった瞬間を描いた、とのことである。

最後に「あとがき」から。この詩集に込められた作者の強い思いを感じる。
 ユダヤ教の大切な宗教行事に、「過越(すぎこし)の祭り」というものがあります。モーゼの出エジプトの切っ掛けになった話で、三千年ほど前の出来事ですが、ユダヤ教徒は今でも艱難辛苦を乗り越えた、民族の大切な祭りとして語り継いでいます。
 私は戦前の沖縄を知りませんが、戦前の沖縄人(ウチナーンチュ)と戦後の沖縄人には、明らかに違いがあると思います。その違いの原点が沖縄戦であり、沢山の人たちが、艦砲射撃にに食われて虚しく死んでゆき、その艦砲射撃の食い残された者たちが、今の私たち戦後沖縄人だと思います。ですから沖縄人のアイデンティティーが続く限り、何百年でも何千年でも、ユダヤ教徒の「過越の祭り」のように、大切に生々しく、沖縄戦を語り継いでほしいと思います。これを語り継ぐことが、艦砲の食べ残しの子孫として重大な責任だと確信します。
昨日(2009/09/13)、モノレールが不発弾処理の影響を受けて午前中を運休した。まだ沖縄では戦後処理が日常である。

2009/09/07

レイアウト変更は一石二鳥、棚からぼた餅

新築当初の4年間は、ピアノをスピーカの間に置き、アンプ類はラックに収めていた(1番目の画像)。
ちょっと大きい音を出すとすぐ飽和するし、音場もピアノの反射のせいか感じられない。なんか聞いていて楽しくないのである。
しかし、この配置以外の選択肢はないものだと考えていた。

2年程前から居着いた猫が隠れ隠れ爪研ぎしたおかげでJ. L. MOLLERのダイニングチェアの座面が剥げ剥げになっているところに加え、KVISTのテーブル(日本向けのためか一回り小さい)の集成材が剥がれてきた(!)ので、これらを修理に出すことにした。
これらの家具と修理の顛末は別のポストに記そうと思う。
(2011/2/14追記:こちらに少し書いた)

家具を修理のために搬出すると、部屋のレイアウト変更の可能性追求への闘志に俄然火がついた。私の素敵な奥様ともどもである。奥様は元々レイアウト変更は好きな質である。見逃すわけがない。小さな家なのでレイアウトの可能性は片手で数えられる程の有限であり、かけられる予算もない。
二人で思案するうちに閃いた。発想を転換。通常のレイアウトではタブーとされている掃き出し窓に家具を置いてみることにした。そうなると玉突きのように次々と家具類がその位置を変えることになる。ソファーを掃き出し窓際へ移動(2番目の画像)し、ダイニングテーブルを90°に振り、ピアノはソファがあった階段下へ移動、オーディオ機器はターゲットオーディオのラックから出して、床置きに近い形で2x4材で作った簡易TVボードの下へ押し込む(3番目の画像:移動直後の仮置き状態)。ラックは戦力外通知でキッチンへ引き取られていった。
どう変わったか?
  • ソファがコミュニケーションし易い位置に移動し、昼間しか使わないピアノがその空いた階段下へ移動した
  • スピーカ間にものがほぼない状態となった。
  • おかげで音がよくなった(音場拡大、付帯音軽減)
3段論法である。
このスピーカ(アバロン, Symbol)、ピアノに毛布をかけて影響を確認しようとしたり(あまり変わらない)、中に毛布を詰め込んでサイレント化を目論んだり(検討のみ)、前のレイアウトでいろいろやってみたのだが、周りにある程度の空間を必要とすること、ピアノはかなり影響力が大きいことが頭ではなく実体験と再確認できた。今は伸び伸びと歌うのがうれしい。購入6年目にしてやっと本領発揮である。
例えば、ちょっと古いがGRPレーベルのアコースティック・アルケミー「アーケイナム」(Arcanum, Acoustic Alchemy, GRP)が実にギターのニュアンスもリズムもそろっていい感じで音楽を奏でている。
音楽をより楽しくより深くさせる音。待ってましたこういう音。
家具の修理代金は痛かったが、この音で元はとった。

# 実は3〜4月の話を今頃書いている

2009/09/04

オバーの教訓

昨日、9/3(木)は旧盆の最終日ウークイ(お送り)であった。私の仕事も休みで、1号(♂9才)の小学校も那覇市内の小中学校は休みということもあって休み、2号(♀4才)のカトリック系の幼稚園も何故か休みである(カトリックなのに祖先崇拝とは何事、などと素朴な疑問を持ってはいけない。そこはそれ、大人の対応だ)。

そのウークイ日、うちの両親と私の素敵な奥様、子ども達総出でオジーの仏壇に手を合わせてきた。と、その前に老人ホームにいるオバーに会いにみんなで寄ってきた。オバーの娘である母親によると戸籍上はオジーと同じ明治44年生まれなのだが、戦争直後の混乱期、戸籍の再登録時(?)に明治44年生まれと登録されたようで、実際は明治42年(1909年)生まれのなんと御年100才だそうだ。
いつも面会に行くと眠っているのが常なのだが。今回はたまたま起きている姿に会えた。こちらの声が小さいのか、目が見えないのか(少し濁っている)、ゆっくりした問いかけにも反応があったりなかったりで、きっと妖精の世界を生きているに違いないと思った。しかし、その声は自分が物心ついた頃から確かに聞き覚えのあるオバーの声であった。
同じ入居者の中でも表情がしっかりしている方がいて(足が悪そうであった)、その方がオバーの反応が悪いのを見かねたのか、オバーは唄をよく歌うよ、このホームに名人がいてその人が三線を弾くといつも歌っているよ、と教えてくれた。母親も、昔から唄が好きだったんですよ、と返す。

そういえば、思い出した。私が東京で学生卒業後も居残って就職し、独り身の暇つぶしに三線を始めて数ヶ月、数曲歌えるようになった頃、帰省の折にまだ元気だったオバーに三線持参で聞かせたことがある。1曲終わった後、
声はいいからもっと練習したら上手になるよ
というニュアンスの言葉を頂いた。
自分の三線の才能を客観的に評価してもらった初めての言葉である(ちょっと歌えるようになったので鼻高々であったのは確か。周囲のみんなは誰も言ってくれなかったが、要するに…下手ということなのね)。
  • どんな人にでも褒めるところはある(はずだ)
  • でも真実は伝えなければならない(遠回しにでも)
オバーの教訓として理解している。

ホームを辞去し、オジーの家に向かう。オジーの仏壇に向かって手を合わせる。
オジー! オバーは元気にしているからまだまだ独身貴族を満喫できるよ、と報告しとけばよかったと今思った。

2009/08/31

刈草はオジーの牛小屋のにおい

3号(♀1才)を連れて、近所に散歩に出かけるとお隣さんが敷地の草を刈っていた。積み上げられた刈草のにおいは、そうだ、オジーの牛小屋のにおいと同じだ、牛小屋のにおいは刈草のにおいだったのか、と分かった。

オジーは15年ほど前に亡くなったのだが、元気な頃の親戚関係の中心にはオジーがいた。
孫達が小学生以下だったこともあってかオジーの子どもたち、つまり、親同士も仲が良く、父親達も海で潜るのが面白いのか、夏になると毎週のように父親達は海へ魚を捕りに潜り、子どもたちは岩場で魚を追いかけ、母親達は父親達が採ってくる魚の処理に少々うんざりしながらも貝を採ったりおしゃべりに興じたり、それなりに楽しんでいた。その親戚同士で「模合」(もあい)をやっていて、毎月一度はオジーの家に集まっていた。オジーが何かを命令するとかそういうのはなく、なんとなく親たちの心の拠り所だったような気がする。
  • いつも仏壇のある二番座の仏壇に向かって右側一番座を背にして座っていた
  • 孫を叱ったことはない(オバーもそうだった)。いつも叱るのは親たちだった(オジーに促された?)
  • 地域の民謡大会で賞がもらえなかったことに憤慨して、親たちにおもしろおかしく慰められていた
  • 初めて見た女子プロレスはかなり面白かったらしく、熱心に面白さを説明し、親たちはこんな喜んでいるオジーを見るのは珍しいのか、笑ってばかりだった
  • 登川誠仁という今では民謡界の名手がいるのだが、その誠仁がまだ弾き始めてまもなく、「ナークニー」をオジーに教えを請いに来たが教えて上げなかったことを、親たちは「教えていれば、誠仁に「ナークニー」を教えたのはオレだと言えたのに…」と嘆息していた
  • 自戒を込めた「学がないとダメだ」が口癖
  • 「男は、唄でも空手でも何でもいいから人前でできるものが無いといけない」と言っていた
  • 「革は柔らかくないといけない、これは上等である」(私が買った財布が高かったので母親達が文句を言った所オジーが財布を手に取り諭してくれた)
  • 馬を飼っていたこともあって、戦後(もしくは戦争中捕虜後)すぐに市長の移動用馬車として徴用された
オジーは闘牛用の牛を飼っていた。闘牛大会へ出して勝ちたいのである。娯楽用である。毎日大量の草を刈って牛のエサにしていた。牛の運動のために近所の道を散歩させていた。
オバーは豚を飼っていた。子豚を育てて売るのである。生活の糧である。豚たちにはいいからと毎日シンメーナービ(大きな鍋)煮込んだエサを豚に与えていた。散歩はないが1回だけ大人の豚が逃げ出して大騒ぎしたことがあった。
オバーの偉さに引け目も感じずオジーはたいてい2頭の牛を飼っていた。孫達は怖くて小屋の中までは怖くて入れないのだが、小屋の入り口から牛を見ると、入り口左手に牛の口の高さまでかさ上げしたエサ置き場、エサ置き場と牛との間には2本の柱が立っていてるは外からでも分かる。角がなければエサ置き場の柱の間から牛の頭は入るが、角があるとまっすぐには入らず頭をひねって角度をつけないと入らない。
奥で休んでいる時はよく見えず大きな体の輪郭と眼だけが光っているようで子供心に怖いと思った。エサ置き場に頭をひねりひねり入れてエサを食べている牛を見ると、鼻の両方の穴から通された鼻輪に痛くはないのかと思い、闘牛の時には激しく戦うとは思えない優しい眼をしていることに気づく。怖い怖いと思いつつ牛は人間が裏切らなければ信頼できると思った。
記憶と結びついた「におい」というのは不思議なもので、躊躇無くすーっと過去に遡り、牛小屋の前に立つ自分がいる。
ずっと牛小屋のにおいだと覚えていたのはオジーの刈った草のにおいだった。

オバーも数年前から老人ホームへ行き、仲の良かった親戚は子供の成長と共に疎遠となり、そのうちことごとく離婚でばらばらとなり、いとこ同士で会うこともなく、地域で一番最初にコンクリート造にしたというオジーの家は今は人気も無く寂れている。オジーが亡くなった後には山羊小屋にされ今は何もいない元の牛小屋や、それでも変わらない仏壇を中心とした家の間取りを見ると一族や家族といったものの栄華盛衰を思わざるを得ない。

もうすぐ旧盆(9/1~9/3)である。最終日「ウークイ」(お送り)にはオジーの家に出かけ、一番座の欄間に飾られたオジーとオジーの牛の写真を見つつ、仏壇に手を合わせよう。

2009/08/26

1号(♂9才)の1学期後半開始、でもマスク着用

1号(♂9才)の1学期後半が始まった。2学期制なので夏休み明けでもまだ1学期である。1号は登校準備を昨晩「終わった」と宣言したのに私の素敵な奥様の軽いチェックで不備満載で、怒られながらの登校となった。

1号のこの夏のラジオ体操の出席率は、夏休み後半に惰眠をむさぼり50%程度、おりこうの2号(♀4才)は2度だけ欠席で準皆出席。
3号(♀1才)は1度だけの参加であったが、この夏、才気爆発。1号と2号を足して2で割らないほどの大物ぶりを発揮。模倣が早い。
2号がかゆみ止めを塗ると「あ、あ(オレもオレも…女の子なんだが)」とかゆくもないはずの足を指して「あー(ここに塗れ)」と指示したりり、目に見えない空想食べ物で「あーん」したり、やぬいぐるみにタオルを掛けてねんねの真似をさせたり、YES/NOも首の縦振り/横振りではっきり示す。ちょっと早すぎないかね、3号君。

さて、新型インフルエンザ流行最先端のここ沖縄だが、周囲にもその影が忍び寄っている。
昨晩1号の担任の先生から、登校時には新型インフルエンザ対策のため、マスク着用、用意できなかった場合はハンカチで、とのお達し。
仕事先では、同僚の子供が感染確定、本人も微熱があったので出社自粛(その後の検査では陰性)、アルコール消毒液は職場随所に配備。それ以外は普通に仕事しているが。

沖縄県の情報によれば、2009/8/25現在で、集団発生箇所は累計で356に上る。

国立感染症研究所 感染症情報センターによると現在の状況は次の通り。

新型インフルエンザA(H1N1)の流行状況-更新12 2009年8月20日
第32週1週間におけるインフルエンザの報告数は、4,630例で、これは統計学的な推計によると、この1週間に全国で約60,000例(95%信頼区間 40,000-80,000)の患者が発生していると推定される。また、定点あたり報告数(1週間の1医療機関当たりへの受診患者数)に直すと、0.99 であり、通常の冬季の季節性インフルエンザの全国的な流行の指標とされている1.0に近くなっている。ただ、まだまだ地域的には流行状況に大きな差異があり、都道府県別の定点あたり報告数では沖縄県(20.36)、奈良県(1.85)、大阪府(1.80)、東京都(1.68)、長崎県(1.50)、長野県(1.44)、三重県(0.99)、茨城県(0.91)、兵庫県(0.91)の順となっている。報告されている流行ウイルスは、ほとんどが新型インフルエンザウイルスAH1pdmである。
沖縄ではこの1週間で1000人前後の報告があるとみてよく、しかも報告数の10倍は患者がいるとみて間違いなさそうだ。となるとこの1週間で1万人、沖縄の人口は140万人弱だから、結構な割合かもしれない。

画像上は国立感染症研究所感染症情報センターのちょっと古い2009年7月28日 15時30分現在の日本の流行地図。

画像下は買い捲りンく研究所経由で知ったFluTrackerの世界地図。ズームしていけば沖縄までたどり着ける。データの更新がやや古いかも(少なくとも日本に限って言えば)。

お隣の台湾も感染者が多いが、沖縄では中部地域の感染者が多いので、米軍基地経由での感染かも案外多いかもしれない。

2009/08/24

電波時計@沖縄 (謎混迷編)

前回と今回のポストの間に「失敗百選」を入れたのは訳がある。
前回確かこう書いた(といってもコピペ)。
その時計を分解して、銅箔などのシールドがあれば、推測は間違っている可能性が高く、なければ、銅箔ないしはアルミホイルでシールドを作ってやって、電波の受信状況を観察、結果を考察する。
対象はGENTOSブランドのMODEL: ET-7301。
バーアンテナが、背面の支えになる一石二鳥の設計。
この時計にシールドはなかった。が、バーアンテナは基盤から距離を取っている。

そこで、ものは試しにとアルミホイルをビニールテープが在庫を切らしていたので導通しないことをテスタで確認した上でセロハンテープでくるんでシールドもどきを作ってみた。
結果、 惨敗、ざ・ん・ぱ・い。
うまくいかなかった。
へなへなへな…。
受信回路の差かも知れないが、電波受信回路の型番らしき"705Z2"を検索しても引っかからない。
今のところもう私にはお手上げ。

昨日寄った、DIYセンターに並んでいる目覚まし電波時計の強制受信ボタンを押しては待つを繰り返してみたが、すべて受信できなかった。
一芸エリート電波時計"SQ666S"が動作不能になった暁にはどうすればいいのだろう。

# 少々の時間のずれなんか気にするな、というのは確かにそうなのだが。

2009/08/21

「失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する」中尾政之著

2009/8/19(水)に那覇市のガーブ川で橋を調査中の作業員5人が流され、1人が救助、4人が遺体で発見された。悲しい事故だ。ガーブ川の行き着く先の川の下流に職場があり、当時、ここにも警察と消防が捜索をしていたのをちらっと眺めていた。
2度とこのよう不幸な事故を起こさないような対策を講じることがせめてもの弔いである。
素人が考えただけでも以下の対策を列挙できる。
  • 鉄砲水の発生履歴の確認 (危険性の把握)
  • 気象の予測と作業中止の判断の明確化 (迷ったら安全サイドへ)
  • ゴム胴衣(胴付長靴)の着用の禁止 (危険性の排除)
  • 雨水の大地への浸透推進  (危険性の排除)
  • 川に頼る雨水処理の改善  (危険性の排除)
  • 川水のコンクリート護岸への浸透改善  (危険性の排除)
  • 河川内作業における1名1安全ロープの接続義務 (受動的安全の確保)
  • 暗渠上流側入口の人間吸い込み防止柵 (受動的安全の確保)

さて、「失敗学」のリーダの一人、機械工学の中尾政之の失敗学の本。
機械工学の失敗例を集めてみると、約200の事例から41個に分類できることがわかったという。
機械工学の人だけあってその方面の事例が多く、専門用語も頻出する。

もともと、国が構築した失敗事例ライブラリである「JST失敗知識データベース」失敗百選という「国内外で発生した典型的な失敗事例を100例程度取り上げ、読みやすく記述」されたものがあり、個々の事例を詳細に眺めて行くにはそちらのほうが文字数の制約もなく、例えば航空機事故などは事故調査報告書なども掲載されており、本書よりも有効だ。本書はその点は物足りない。
ちなみにJSTは科学技術振興機構の略称。

しかし、この本は「まえがき」「第1部「失敗百選」とは何か」での指摘が重要だ。
日本で分析すべき失敗は、企画・開発の失敗である。(p.xiv)

使命感が醸成されないと、失敗を防ぐ気にもなれない。(p.xv)

「自分で失敗を経験したり、他人の失敗を伝聞したりして得た知識を、まず、収集してそこから共通点を抽出する。次にそれを現在の自分の状況に当てはめて、将来の失敗を予測し、致命的な損失を回避する」ことである。つまり「失敗を集めて選んで使う」(p.3)

失敗は技術的と組織的の原因を併有する(p.28)

重大事故は主要機能以外の些細な要因から発生する(p.29)

失敗は思考水平面の周辺部から発生する(p.47)

管理強化してもおっちょこちょいの人間の性格は変えられない(p.50)
仕事で、失敗データベースに刺激を受けて、類似した障害事例のデータベースを構築、啓蒙を行っているが、運営してみてよくわかったのが、障害事例を選定、詳細を記述、分析していくうちに障害の全体像と原因がだんだんはっきりと見えてくることである。「終わりよければすべてよし」ではいけない。
読むよりも作る方がはるかに経験値を上げるのは、どの世界でも同じであり、事例構築活動はメンバーが一人一人やるべきだと思った次第。

以下は手元にある関連する本の紹介。

「決定版 失敗学の法則」畑村洋太郎著

ビジネスマン向けの失敗学の啓蒙書。
「摩擦、軋轢があるのが健全な組織」という一文に唸る。
ひとつの組織の寿命曲線のなかで萌芽期、発展期の途上にある組織は、各人にやる気と夢があって組織全体に活気があります。各人が情熱に燃えていて「おれが、おれが」といろいろなことをやりたがるので当然、衝突が起こります。だからこそ、新たな創造が生まれるのです。(p.164)
しかし、成熟した組織では役割分担がはっきりしており、それが、組織間に「隙間」を作ることになる。そこに失敗が起こる。
失敗の温床ともいえる隙間を作らないようにするには、軋轢や摩擦が起こるような状態が健全なのだと認識して、組織運営することです。(p.165)


「NHK知るを楽しむ この人この世界 2006年8・9月 だから失敗は起こる」語り手:畑村洋太郎

ふとTVを見ると失敗学をやっているではないか。さっそく次の日に書店へ出かけて最後の1冊を手にした次第。
責任追求でなく原因究明を
六本木ヒルズ回転ドア死亡事故が、当事者のみならず業界を超え、法律家、医師、建築家など第三者的な視点からも原因の究明、回転ドアのみならず、ドア全般に対する「本質安全」「制御安全」への取り組みに当たったことが「失敗学」の集大成とも言えるものとしている。
ドアは軽くてゆっくり動かなければ危ない
のである。
ベビーカーの車輪が電車のドアに挟まれないように大きくなっているのをご存じか?


「パイロットが空から学んだ危機管理術」坂井優基著

失敗学ではないが、パイロットから見たリスク管理の要点を読みやすくまとめた本。
標語として並べて張り出しておくと何かの時のヒントにはなりそうだ。
  • 判断に感情を持ち込んではいけない
  • 2つ以上いいことは同居しない
  • 都合のよい解釈をしてはいけない
など。


ガーブ川の事故は確かに急激な気象の変化とそれに伴う河川の増水が主要因かもしれない。
しかし、決して、一つの要因から起こった事故でないことは明らかだ、と上記の本を読んだ今はそう考えることができる。
責任追及ではなく原因究明を。

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