オジーは15年ほど前に亡くなったのだが、元気な頃の親戚関係の中心にはオジーがいた。
孫達が小学生以下だったこともあってかオジーの子どもたち、つまり、親同士も仲が良く、父親達も海で潜るのが面白いのか、夏になると毎週のように父親達は海へ魚を捕りに潜り、子どもたちは岩場で魚を追いかけ、母親達は父親達が採ってくる魚の処理に少々うんざりしながらも貝を採ったりおしゃべりに興じたり、それなりに楽しんでいた。その親戚同士で「模合」(もあい)をやっていて、毎月一度はオジーの家に集まっていた。オジーが何かを命令するとかそういうのはなく、なんとなく親たちの心の拠り所だったような気がする。
- いつも仏壇のある二番座の仏壇に向かって右側一番座を背にして座っていた
- 孫を叱ったことはない(オバーもそうだった)。いつも叱るのは親たちだった(オジーに促された?)
- 地域の民謡大会で賞がもらえなかったことに憤慨して、親たちにおもしろおかしく慰められていた
- 初めて見た女子プロレスはかなり面白かったらしく、熱心に面白さを説明し、親たちはこんな喜んでいるオジーを見るのは珍しいのか、笑ってばかりだった
- 登川誠仁という今では民謡界の名手がいるのだが、その誠仁がまだ弾き始めてまもなく、「ナークニー」をオジーに教えを請いに来たが教えて上げなかったことを、親たちは「教えていれば、誠仁に「ナークニー」を教えたのはオレだと言えたのに…」と嘆息していた
- 自戒を込めた「学がないとダメだ」が口癖
- 「男は、唄でも空手でも何でもいいから人前でできるものが無いといけない」と言っていた
- 「革は柔らかくないといけない、これは上等である」(私が買った財布が高かったので母親達が文句を言った所オジーが財布を手に取り諭してくれた)
- 馬を飼っていたこともあって、戦後(もしくは戦争中捕虜後)すぐに市長の移動用馬車として徴用された
オバーは豚を飼っていた。子豚を育てて売るのである。生活の糧である。豚たちにはいいからと毎日シンメーナービ(大きな鍋)煮込んだエサを豚に与えていた。散歩はないが1回だけ大人の豚が逃げ出して大騒ぎしたことがあった。
オバーの偉さに引け目も感じずオジーはたいてい2頭の牛を飼っていた。孫達は怖くて小屋の中までは怖くて入れないのだが、小屋の入り口から牛を見ると、入り口左手に牛の口の高さまでかさ上げしたエサ置き場、エサ置き場と牛との間には2本の柱が立っていてるは外からでも分かる。角がなければエサ置き場の柱の間から牛の頭は入るが、角があるとまっすぐには入らず頭をひねって角度をつけないと入らない。
奥で休んでいる時はよく見えず大きな体の輪郭と眼だけが光っているようで子供心に怖いと思った。エサ置き場に頭をひねりひねり入れてエサを食べている牛を見ると、鼻の両方の穴から通された鼻輪に痛くはないのかと思い、闘牛の時には激しく戦うとは思えない優しい眼をしていることに気づく。怖い怖いと思いつつ牛は人間が裏切らなければ信頼できると思った。
記憶と結びついた「におい」というのは不思議なもので、躊躇無くすーっと過去に遡り、牛小屋の前に立つ自分がいる。
ずっと牛小屋のにおいだと覚えていたのはオジーの刈った草のにおいだった。
オバーも数年前から老人ホームへ行き、仲の良かった親戚は子供の成長と共に疎遠となり、そのうちことごとく離婚でばらばらとなり、いとこ同士で会うこともなく、地域で一番最初にコンクリート造にしたというオジーの家は今は人気も無く寂れている。オジーが亡くなった後には山羊小屋にされ今は何もいない元の牛小屋や、それでも変わらない仏壇を中心とした家の間取りを見ると一族や家族といったものの栄華盛衰を思わざるを得ない。
もうすぐ旧盆(9/1~9/3)である。最終日「ウークイ」(お送り)にはオジーの家に出かけ、一番座の欄間に飾られたオジーとオジーの牛の写真を見つつ、仏壇に手を合わせよう。