六十年たった今だからわかったこと、書けること、言えることがたくさんある。(p.11 はじめに)著者は沖縄戦当時20才なので、80才の時の著書になるが、昨年11月に87才で亡くなられている。
妹を沖縄戦が始まる前に對馬丸の遭難で亡くし、長兄も沖縄戦で戦死している。103才で亡くなられた母君が、亡くなった二人の子を詠んだ琉歌がなんとも悲しい。
本書は、著者自身の前田高地での戦闘を描いた沖縄戦記に留まらず、捕虜収容所での出来事から沖縄脱出までを振り返り、また、前田高地での戦闘を共にした大隊長達や兵士達の証言とアメリカ側の記録と証言を併せて掲載している。
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沖縄戦記であるので、文字通り血なまぐさい話はそこかしこにでてくるが、ここでは、そこから視点をずらし、沖縄戦以前や当時の自然や街並み、人の暮らしを表している部分に焦点を当て引用してみる。
まずは、戦後、沖縄を密航で離れ、学究の徒となった、著者の原風景。
どこまでも澄み、抜けるように青い空。目に鮮やかな赤瓦と漆喰の白。木々の深い緑。そして明るい陽光。ものごころついた頃から馴染んできたその風景こそが私の故郷であり、原点である。(p.17 一 決戦前夜)
琉球王国時代から東アジア、東南アジアへの貿易港として発展した港町那覇はいつも活気づいて変化に富んでいた。その港町から、かつての琉球王国の都へと向かうなだらかな坂の辺りからその空気は一変する。そこには首里城へ続くゆるやかな時が流れており、民家の赤瓦もさることながら、道筋の石積み一つ一つにも重厚な風情を感じる。坂道を登りきり、朱塗りの守禮門から歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門とくぐって進むと首里城正殿に出る。奉神門の右手には玉城の鎮守、首里杜御嶽が、その奥には京の内と呼ばれる聖域があり、昼なお暗い幽玄な聖空間だった。その首里城へ向かう道を守禮門のそばの園比屋武御嶽で左に折れ、城壁にそって下る道には樹齢四〇〇年という赤木が鬱蒼と繁り、一層閑静な佇まいである。およそ五〇〇年前に造られたという龍潭池畔に、私の通う沖縄師範学校があった。(p.17 一 決戦前夜)戦闘直前、敵艦船を初めて見る。
とうとう、敵機動部隊は、本島南部の湊川沖から喜屋武岬にかけて姿を現した。私は陣地壕を出て、丘陵の茂みに腹ばいになってそれを眺めた。紺碧の海に浮く真っ白な戦艦や巡洋艦は、まるで絵葉書か何かを見るようだった。限りなく青い空と海を背景に真っ白な艦船が眩いばかりに並んでいる。(p.45 一 決戦前夜)捕虜となったあと、捕虜収容所での初めての芸能大会。
戦後初の芸能大会が石川の城前小学校の校庭で行われたのはその年の十二月二十五日のことである。(略) 砲弾の降ってこない南島の夜空に吸われていく三線の音や人々の歌声に改めて平和の尊さを実感した夜であった。ちなみに「うりずん」とは、冬が終わり、3月の終わり頃から梅雨の始まる5月初めまでの間、湿度も低く清々しい時期のこと。
石川の城前小学校で行われた芸能大会が人々の心にどれほどの活力と潤いを与えたか、想像に難くない。枯れ枯れの大地に浸みとおる水のように、植えた心の奥 深くまで浸み込んでくるものを私自身も感じていた。後年、私は私の学問で「うりずん」という語に出会うが。歴史的にさまざまな苦悩を体験してきた沖縄を甦 らせてきた力を私も身を以って知った出来事であった。 (p.144 三 捕虜収容所にて)
1946年ごろの沖縄は既に復興の息吹を感じさせる。
沖縄全体が混沌としていたが、巷の人々は意外に明るく陽気だった。戦争でへこたれたという風情ではなくみんな元気にふるまっていた。逆境にうなだれないウチナーンチュの特性なのだろうか、アメリカの缶詰や野戦服の横行や軍票を使っての物流経済の中で人々は小さなしあわせを囲ってアメリカ世と呼んでいた。 (p.149 三 捕虜収容所にて)続いて、林上等兵の証言。
初めて沖縄に来た時の海や空の青、対比するように投降した時の太陽がまぶしい。
敵の潜水艦に怯えながら東シナ海を南下している頃、移動先が沖縄であることを知った。五日ほどかけて船団は沖縄の沖合にやってきた。北国育ちの林にとっては、初めて見る赤瓦の屋根やこの世のものとも思えない青さの海や空がまばゆかった。(p.215 四 証言編)
第二大隊は恩納村の山田国民学校に本部を置き、林たちは海岸沿いの真栄田集落に駐屯した。もう既に食糧難であったにもかかわらず沖縄の人々は優しかった。真栄田に到着するとすぐに集落の人々が心づくしのもてなしをしてくれた。麦粥に砂糖が入っていて滋味だった。 ひと月ほどすると多幸山で坑道陣地構築が始まった。この頃は漁師から魚を買ってくることもでき、沖縄時代で唯一、満腹感を味わえた時期だった。(p.216 四 証言編)
九月三日の朝、米軍将校と兵隊がジープとトラック五台で迎えにやって来た。久し振りに浴びる太陽がまぶしかった。そこには初めて沖縄にやって来た日に見た南国の抜けるような青空があった。 (p.227 四 証言編)所属した大隊800名余のうち、降伏した9月3日まで生き残ったものは著者含め29名だった。
(日付から分かるように、沖縄ではポツダム宣言受諾の8月15日以降も局所的な戦闘は続いていた)
これらの引用から読めるのは、今も変わらない青い空、青い海、赤瓦、人々のホスピタリティとバイタリティ。
戦闘中の記述には色彩が欠けているのは、壕で休息、夜間に行動といった暗渠生活のためか。
そして引用したもの以外の大多数は砲弾の嵐、絶えず攻撃にさらされる転々とした壕での生活、それに血と屍の数々である。
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著者の思いは「おわりに」に凝縮されている。
戦後六十年。初年兵だった私が齢八十を超え、あの酷い戦いを証言出来る者が少なくなりつつある今だからこそ、私は私の体験した沖縄戦を出来る限り記録し、沖縄にいまだ訪れない心の平和についてもう一度考えてみたいと思う。(p.263 おわりに)この後に、占領政府の確立、軍事基地の強化を目のあたりにし、一方で、日本国憲法の制定と平和思想の眩しさに思いを寄せる。しかし、対日講話条約(サンフランシスコ講和条約)、日米安全保障条約、日米地位協定が締結され、沖縄が切り離されたという事実が潜在主権という言葉でカモフラージュが施されたころから日本政府に不信を抱くようになる。少なくとも「沖縄に住む人々の合意はなかった」し、「沖縄県民には説明も説得もなかったし、内容も十分に伝わらなかった」のである。そして最後に
六十年前に辛酸をなめつくした沖縄だからこそ、そして今なお理不尽な条約が足かせとなって苦しみ続ける沖縄だからこそ、アジアや世界に向かって真の平和を求めるシグナルを発信できるのだと私は確信する。(p.274 おわりに)と締めくくる。
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沖縄戦における民間人の犠牲の多くは、日本軍本部が首里から撤退し、南部に移動した頃に多くを占める。軍隊が民間人を守るのは二の次か間接的なことに限られることが分かる。この本でもそうだが、沖縄戦に関する本を読むと、軍隊は軍隊と戦うためにあるのであって、戦場に民間人がいるべきでないし、民間人がいるところを戦場にすべきではない。
人間、どうせ一度は死ぬのだから、せめて自分やその子孫の代には、自分の意志で生きてゆける世界であってほしいと思うし、世の中の仕組みとしての理不尽さは解消して欲しいと思うし、自分たちの手で解決すべきだと思う。そして、それは先生の思いにも通じるものがあると思う。
(追記: 本記事を書いた後に初めて見たアマゾンのレビューがどれもすばらしい。)
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