2008/11/15

去る人々 (2/2)

画像はWikipedia Commonsから明石海峡大橋頂上。

去る人々 (1/2)からの続き。

2007年10月。
そして、伯母のM(父の姉)。

伯母さんはいつも風のように実家に現れて、アメリカのお菓子などのおみやげを置いていくとちょっとおしゃべりして数分で帰って行く。私の両親に初孫(つまり姪っ子)ができたときに実家に上がり30分くらい滞在したのが記録ではないか。詳しいことはよく分からない人だった。
私と弟がまだ子どもの頃に入学などの記念の時には時計や万年筆など贈ってくれた。私と弟の成長を言葉だけでなくちょっと気の利いたプレゼントで表現してくれた数少ない人だった。
病気になるまで知らなかったが、商売をやっていたはずで(見たことはない)、世間とのつながりがどういうものであったか分からない。

一緒に生活していた男性(内縁の夫?)の看病がたたり、2007年4月から自分も入院。煙草が原因と思われる呼吸器系の病気を患った。入院からは私の父母だけではなく、私の家族、弟家族を巻き込みながら、退院先の手配、生活費支給の問題に右往左往の日々が続く。
伯母が入院してまもなくの5月にその男性は亡くなり、本人に父母のどちらかが正直に告げると納得はしていたようだ。その代わり、住んでいた家はその男性のものなので、男性の兄弟から追い出されることになる。
体力が徐々に回復し病院側から退院を迫られるも、生きるための新たな条件となった酸素ボンベ携行が災いして、住むべき部屋も見つからない。
しばらくすると、今まで住んでいたところからもほど近い所に老人養護施設が開設するとの情報が舞い込んでくる。それまで退院を引き延ばしてもらった。7月1日に退院しその足で施設へ入所する。その施設はある程度自力で生活ができる人を前提としてあり、第1号入居者として1階の一番奥の個室で海が一望できる一番いい部屋を割り当てられた。
その後は子どもたちを連れて時々訪問には行ったが、会うといつもうれしそうであった。子どもたちはいつも何かしらもらって帰って行った。ただ酸素ボンベを持ち歩かないとどこにも行けないのが大変だとは言っていた。

10月末の土曜日の早朝、弟から亡くなったとの知らせ。前兆は何もなかった。
その日の約束をすべてキャンセルし、病院の霊安室に駆けつける。安らかに眠ったような伯母さんがいた。悲しい気持ちに嘘はないのだが不思議と涙は出ない。親戚として完璧ではないけれどやれることはやった気がしたからだと思う(全身全霊にはほど遠いが)。優しい顔であったのが何よりも救いだ。
病院ではなく施設で亡くなったので、事件性の有無を調べるため、施設の方と私と弟は待合室で簡単な事情聴取。イヤな感じは せず大変な仕事だと私服の警察官を眺める。施設の方は担当の若い女性とそのリーダー役と思わしき男性。女性は涙で目が赤かった。泣いてくれる人がいると思った。
警察によると、一旦警察署へ運び死体の検案をするとのこと。搬送は葬儀会社が行った。この時点で葬儀会社は決定していないが、結局そこを使うことになった。
一旦家に帰り、喪服一式を用意し、実家へ向かう。その後父と施設へ伺い、荷物の整理を行う準備をする。写真を使うことになるので写真はすべて持ち帰ることにした。ちなみに「検案」という言葉をこの時初めて知った。
そのうち警察から電話があり、検案の時刻を教えてもらう。また、慣習として医師に2万円を謝礼として渡していることも教えてもらう。
その日の午後の指定された警察署、指定された時刻に父親と行く。医師の検案の結果、心不全。直接的な原因が不明の場合によく使われるらしい。事件性はないとのことで解剖は行われなかった。そのまま死体検案書を作成してもらう。施設へも事件性はない旨を連絡する。

離れて暮らしていた伯母さんの二人の娘が(と言ってもちょっとかなり年上)駆けつけ、一緒に葬儀の手配を行う。極力お金はかけず、新聞への公告も行わないことになった。
ちなみに沖縄では死亡するとでかでかと新聞に公告することが一般的だ。亡くなった方の家族親戚友人等の関係があからさまになる反面、子どもや子育て真っ盛りの親御さんの死も知ることになり、現在自分の置かれている状況が奇跡に近いことを実感することもある。
伯母さんの体は、一旦葬儀場で安置することになった。
伯母さんは二人の娘に大変な苦労をかけてきたので、二人の娘の普段の伯母さんに対する対応はドライだったはずだ。
二人を連れて葬儀場の安置所へ向かい、伯母さんの顔を見ることになった。伯母さんの顔を見ても取り乱すことはなかったが心中穏やかでない様子が伺われた。ただ、安らかな顔を覗き込んでほっとしたようだった。
帰り際、安置された部屋に虫(蛾だったかな)が迷い込んできて、これは伯母さんが様子を見に来たかもしれないねと話し合った。

翌日の告別式には公告を行ってないにも関わらず、施設の方、伯母さんの元で働いていた女性が数名訪れた。伯母さんの娘二人の家族や父母、弟一家、私の家族もいっしょだ。施設の女性はやはり泣いていた。伯母さんは施設の第1号入居者にして第1号の退所者となった。伯母さんの仕事仲間は「ママさんにとても世話になった」と言って泣きはらしていた。娘達に苦労をかけた分、彼女たちに優しく接していたのかもしれない。
火葬を行い、骨片と灰になった伯母さんを安置するお墓もないので、娘のうちの一人の家近くのお寺でしばらく預かることになった。

伯母さんはちょっとみんなをかき回した後あっという間に逝ってしまった。不謹慎かもしれないが、なかなか潔い引き際だな、と思った。
死ぬ間際になって、関わった私達みんなにちょうど乗り越えられるような試練を与えてくれたような気がする。

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