最近、沖縄戦F0世代の義父の長兄の最期の様子が判明した。
実家の両親の心身の健康状態もそろそろ怪しくなってきた。
沖縄戦F1世代の私にできることといえば、彼らの記憶を記録に残して、子のF2世代や孫のF3世代へと語り継いで行くことくらいなので、F0世代の両親、義父母の記憶を記録してみる。
「記憶を記録」とは言っても、両親義父母がそれぞれ、あるときにふと話してくれたくれたことを、私の記憶を呼び起こしながら書いているので、間違っている部分があるかもしれない。正しい情報を聞きつけ次第訂正が入る場合がある。
戦後、それぞれがたどった経過も簡単に添える。
ちなみにF0、F1というのは遺伝子世界の累代表記の初代、交配第1世代から取ってきた。
つまり、F0世代は戦争体験者、F1世代はその子どもたちということになる。
間違った使い方かもしれない、ということは承知で書いているが、0はゼロスタート、戦争で多くのものを失い無から始まった、などを意識している。
母親の場合
当時12才。
太平洋戦争時は美里村美原(現うるま市石川東恩納)に家があり、戦争が始まると、金武村(現金武町)へ避難した。
金武の壕の中では、幼い弟が泣くので、一緒に逃げた近所のおばさんに静かにさせろと言われ、手でグーを作って弟の口に突っ込んで声が出ないようにした。
日本兵の死体が膨れ上がっているのを見たことがある。
戦争の酷い記憶はこの程度で、話に聞く南部の激戦のようなものはなかった。
戦争前の日本兵は威張っており、すぐ殴るのを見ていたので、好きにはなれなかった。
幸い、家族で犠牲になったものはいなかった。
戦後、父親が馬を持っていたので石川市長のお供をしていたことを覚えている。
(捕虜になった時期や過程は聞けていないが、住んでいた地域や被害の状況から、時期は米軍上陸直後の1945年4月上旬だと思う)
父親の場合
当時11才。
出身が奄美大島である。
戦争の直接の被害は少ない地域であり、もともと寡黙な人なので、戦時のこれといった話は聞いたことがない。
戦後は、沖縄へ行き来する船の乗組員として乗船し、その後沖縄へ軍雇用員として沖縄に移住した。
(戦後米軍下にあった沖縄へ来るために所持していたパスポートを見たことがある。)
義母の場合
当時3才。
糸満市摩文仁で終戦を迎えた。
母親と幼い弟を糸満市摩文仁で亡くした。
その時のはっきりした記憶はない。
糸満市米須の魂魄の塔に近いので遺骨はきっとその塔に収められていると思っている。
戦後、継母からはあまりよい待遇を受けなかった。
(魂魄の塔には3万5千の遺骨が葬られている)
(義母の父親の戦時の話は聞けていない)
義父の場合
当時3才。
宮崎県に母親らと疎開していた。
長兄が県立第一中学校(現在の首里高校の前身)に通っており、鉄血勤皇隊として徴用され、戦死した。
最近、生き残った長兄の同僚の手記が見つかり、長らく不明だった長兄の最期の様子が分かった。
手記によると、長兄は、糸満市摩文仁で通信隊員として壕に潜んでいるところを、 艦砲射撃の爆弾の破片がお腹に当たり、内蔵が飛び出る状態になった。これは長くないということで、自決しようと手榴弾のピンを抜くが不発で、死ぬまでの長時間苦しんでいた、という。
これを知った義父母は、祖母が最期の様子を知らずにいたのは、不幸中の幸いであると思った。
戦後ハワイの篤志家が建てた慰霊のための塔の近くの壕だというので、その塔に遺骨があるのかもしれないと考えている。
戦後、長兄を亡くした義父の父親が徐々に精神を病み、最期は自死したので、次兄である義父が弟妹たちの学費を世話するなどの苦労をした。
(義父の父親の戦時の話は聞けていない)
F2世代である私達の子どもたちは、まだ、F0世代と直接話を聞くことが出来る。これから生まれてくるF3世代にどう伝えるか、どう伝わるかに興味がある。
====
画像は昨年(2013)6月23日慰霊の日に行われた、白梅の塔での慰霊祭、テントに映る樹の影。
この記事で使った画像の再掲。
iPhone5で撮影。
0 件のコメント:
コメントを投稿