「2の10乗は1024。これは覚えておきなさい」もっと複雑であるとか深いとか含蓄があるとか研究室の恩師が言ったとかそういうのは一切覚えていないに等しくて、林先生が「関数論」の講義の合間に口にされた実務的な内容のこの言葉だけを覚えている。
抽象的な学問より手応えのある実務的な役立つ何かを当時の私は欲していたのだ、ということがここまで書いて今やっとわかった。この講義から20年近い歳月が流れている。気付くのが遅すぎ。
今にして思えば「2の10乗...」は講義の内容とは直接関係なかったはずなので、林先生には講義の工夫に苦労をかけたんだなと感慨耽り。林先生の名前「一道」がありそうでなかなかないことや、月の大きさが地面の近くで大きく見えるのは目の錯覚で…などの挿話もあった。当時の私には講義の内容はからっきしであった。たぶん3年生の頃か?
講義以外に個人的なおつきあいはなかったが、1991年頃かに引退なさるので最終講義に対する好奇心もあって受講したことも覚えている。
そういえば、銭湯の広い湯船で何となく両手両足を左右にゆっくりと伸ばした時、ああ、こうやって無防備に自分を解放するのはいったいどの位ぶりなんだろう、と心の中からの開放感にびっくりしたことも思い出した。上京4年目、4年生の頃、一人暮らし。その瞬間から何かが変わり始めたのだが、その時は何かわからなかった。なぜ開放感を感じるのかもわからなかった。わかるようになったのはずっと後になってからである。気付くのが遅すぎ。蛹(さなぎ)の時代である。
今自分の置かれている状況はその学生時代には思いもつかないし、そもそも思いが及びもしていなかった。いや夢にくらいは思っていたかも知れないかな、でも少なくとも夢物語であるし現実は違うものだと思っていたし時代もそうだった。そのために格別の努力をしたわけでもない。毎日毎日の選択を行ってきただけである。でも「2の10乗は1024(=1K)」は仕事で頻出するし、その間に「自分の」家族もできた。幸い皆健康である。
今という時は過去の毎日の数え切れないほどの選択肢の中から選んできた先にある、あえて言えばひとつの奇跡である。「生きているだけで儲けもの」の世界だ。しかし、常にオン・ザ・エッジ、立ち止まってはいけない。バランスを取るために前へ前へ進む。かと言って易きに突き進むとバランスを失って底に転落し続くはずの奇跡が崩壊する危険性を常に孕んでいる。間違えたかなと思えば少しだけ戻ればいいのだし、戻って慎重に選んでまた間違えたと感じたら更に戻ってみるだけである。そしてまた前に進む。実のところ間違っていたかどうかは落ちてみて初めてわかる。わかった頃にはもう遅い。だから外側をよく観察し外側の声に耳を澄ませ、そして一番大事なのは自分の心に感じる微妙な何かを感じ取り自分が正しい思うところへ進んでいくしかない。選択肢の選び方には癖や偏った見方や自己主張が必ずあるから外側からその選択肢を変えるのは不可能ではないが容易ではない。選択肢を変えるのは、言い換えれば、自分を変えるのは常に自分自身の自覚にある。このことをもう一度自分に言い聞かせておこう。
# こういうよくわからんもったいぶった書き方の時はきっと何かあったと…。
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