毎朝のように出社すると、始業のチャイムに続いて、ラジオ体操が始まり、続いて朝礼、最後に自己啓発やビジネス知識に関する本を持ち回りで朗読することになっていて、まさに社畜リーマン稼業の面目躍如といったところだ。
朗読の時間は、誰かが読んでくれるのをそのまま聞くより、自分の目で文字を追う方が理解は早いし、朗読される内容自体も実際のところつまらないので、この時間はちょっとした苦痛である。
そんな気持ちとは関係なしに私の耳には朗読者の声が否応なしに届くのは仕方がないとあきらめる。
しかし、ある日よくよく聞いてみると、面白いことに気付いた。
人によってはあるフレーズや単語を、自分の中の別のフレーズや単語で置き換えてしまうのである。
例えば、こうだ。
(正) 素晴らしい可能性を秘めた人生を、あたら ムダにしているようなものです
(誤) 素晴らしい可能性を秘めた人生を、あらかた ムダにしているようなものです
あたら : 惜しくも、残念なことにこの間違いを内心で「勝手読み」と名づけているが、ヒューマンエラーの用語でいうと、スリップや思い込みだろうか。
あらかた : 大部分、だいたい
人間が何かを朗読するとき、目を通して得られた視覚情報は、脳に送られ、過去の記憶からパターンマッチングが行われる。マッチングを行っている中で 最初にマッチした結果を、発話をするためにのどを震わせ唇を動かす。発話した内容(発話情報)を自分の耳で聞き、先に得られた視覚情報へフィードバックす ることにより、視覚情報と発話情報が一致しているかどうかをチェックする。人間は、この一連の動きを、ものすごい短時間のうちに無意識に行っているようである。
さて、朝礼の朗読での間違いの仕方に着目すると、大まかに三つにタイプに分けられる。
- よどみなく正確に文字をトレースしながら話す
- 間違えたところに気付き元に戻っては修正してを繰り返し絵話す(つっかえて話す)
- 間違えに気付かずに話す
勝手読みは3番目に該当する。読んでる人の、声色、スピード、抑揚、などそれぞれ読み方には個性があるのだが、間違え方(間違えない方)にもそれがある。仕事の結果にも影響しているような気がするのは穿った見方か。
そういうことで、朗読での勝手読みには、 「子どものうそ、大人の皮肉」松井智子著に書いた、
のようでもあるし、「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」に書いた、
- 思考を節約しようとする
- 最初の解釈にたどり着くとそれ以上の追求を中止する
多くの人は見たいと思うものだけしか見えていないなどと同じような慣性が働いているのかもしれない。
話すだけでなく、読むことでも勝手読みはある。
私自身、メールでの読み間違いが多くなってきた。
ある製品名がAX3と書いているのを、AXが3台と読み間違えるのである。
後で読み返すと、自分の犯した間違いに気づくのだが、どうも定型のパターンに合致させたがっているようである。
誤メイルは後が怖いので、とりあえず返信する際は時間をおいて確認した後に送信することにした。
さてさて、冒頭の3号もしばらくすると、一人で絵本や本を読んだりすることで、だんだんと読む量をこなすうちに、文字単位から、単語単位に、フレーズ単位に、文章単位に、成長に連れ高度になり、読み話すことがまるで生まれるときに既に身にまとっていたかのようにスムーズに読んだり話したりするようになるだろう。
もしかするとさらに高度化して、六法全書を片手に、子の権利と親の義務を語った条文を私の前で声高々に淀みなく読み上げる日が来るのかもしれない。
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画像は2010年、3才頃の猫。
まだ幼さがあって、しかも細い。