2013/04/26

太陽光発電、半年経過実績

2012年9月11日に太陽光発電を導入して半年が経過したので、実績を報告する。
この期間は太陽から届くエネルギーが少ないまさに冬の期間である。

導入月である9月は月途中からの導入であり、また台風による停電等があったため除外した。


1番目のグラフは、消費した電力量の割合を売電量と自家消費量で示した。また、自給率も示した。
  • 自家消費量:太陽光発電のうち自家で消費した電力量
  • 消費量:我が家の消費電力量
  • 買電量:沖縄電力から購入した電力
  • 自給率:消費量に占める発電量の割合
自給率の平均は49.1%であった。

2番めのグラフは、発電量に占める売電量と自家消費量を示した。
  • 売電量:沖縄電力へ売った余剰電力量
  • 発電量:太陽光発電が発電した電力量
拙宅のシステムの使用上の総発電量は3.12kWであるが、電力モニタでは瞬間的ではあるが、3.6kWを記録している。15%増しである。ただし、1時間通して3kWを超えたことはない。

3番めのグラフは、発電量と全日射量を同じグラフにプロットしたものである。ほぼ相似形といってもいい。
太陽光発電は光エネルギーを電気変換しているので、日射量に比例することが、このグラフからも一目瞭然に分かる。
実際、拙宅のシステムでは、発電量と全日射量との間の相関係数を求めると0.986と非常に高い相関を示した。
ということで、全日射量から簡易的に発電量を求める式が立てられるので、発電量と全日射量の比を求めると
Σ発電量 / Σ全日射量 = 21.7
(ただし10月~3月の実績値)
の値を得た。
つまり、拙宅の場合、全日射量に21.7を乗算するとおよその電力量が推測できる。
簡易式は次の通り。
発電量(推測値) = 21.7 × 全日射量


また、10月から3月の全日射量の平均は11.4 MJ/m^2 であった。
発電量のグラフは凹型であるが、1年間の全日射量の平均は気象庁の統計情報(沖縄・那覇)によると14.3 MJ/m^2 であり、これから夏に向けて、太陽光発電は稼ぎ時を迎え、グラフの形も凸型へ推移し、発電量が増加することが期待される。
 次は、1年経過後に振り返り、かつ、資金回収の展望も踏まえて報告したい。

2013/04/25

TED:アンドレア・シュライヒャー 「データに基づく学校改革」

OECDが2000年から実施しているPISA(Programme for International Student Assessment:生徒の学習到達度調査)の効果を定量的に訴える。
勘や経験、記憶に頼った当てずっぽうの教育改革の話ではないのが、当たり前だがいい。
韓国の飛躍が随所に現れる。


PISAについてはリンクのWikipediaのページを足がかりとしてみてもらうとして、
OECD加盟国の多くで義務教育の終了段階にある15歳の生徒を対象に、読解力、数学知識、科学知識、問題解決を調査するもの。国際比較により教育方法を改善し標準化する観点から、生徒の成績を研究することを目的としている。
いくつか興味深い箇所を引用する。

教育によっては、グローバル社会で最大7学年の差が出る。
上海とチリの15才を比べるとおよそ3.5学年分の学力差があることがわかります。成績が最下位層の国を含めると差は7学年分に広がります。今日の経済社会へ乗り出す若者たちは既に準備の段階で 大きな格差があるのです。
機会の平等性を犠牲にする必要はなく、却って全生徒に機会を与えたほうが良い。
国際比較による 大きな発見の一つが優秀な成績を収めるために機会の平等を犠牲にする必要はないということです。こうした国々が目指してきたのは一部だけではなく 全生徒の能力を高めることです。重要な教訓です。学校で人を選別するという ―教育システムへの批判でもあります。
明日の教育を重んじることが成功の第一歩である。
私達がPISAから学んだことは優秀な教育システムでは国民が納得して今日の消費より明日の教育を重んじるように指導者が呼びかけていることです。信じられないかもしれませんが、皆が行きたがるのがショッピングセンターではなく学校だという国があるのです。本当の話です。
個の違いを認めた多様性に対応した教育が有効である。
かつては生徒が多様でもほぼ同じ方法で指導していました。PISAの成績が上位の国では生徒の違いを認め ― 個に応じた教育活動を行っています。そういった国ではどんな生徒にも優れた才能があると考えて個に応じた学習機会を用意しています。
教育システムも大事だがより大事なのは教師の質である。
これは一人あたりの教育のための支出を見ても明らかである。
どの国でも重要なのはシステムの質よりも教師の質です。成績上位の教育システムでは教員採用と研修に力を入れています。教員採用と研修に力を入れています。
教育の改革を自分自身で行うには困難が伴う。
PISAならばその手助けができる。
教育行政の変革を「墓場の引っ越し」にたとえる人がいます。中にいる人に手伝ってもらえない(笑)一方 PISAは教育の可能性を示し ―改善が可能だと気付く手助けをしています。

2013/04/15

「ノマドと社畜」谷本真由美著

子どもの活動を通して知り合ったアメリカ人パパは、日本語ができない。
しかも、彼は沖縄に在住する多くのアメリカ人のように米軍基地内で働くわけでも、基地の経済をあてにするでもなく、ましてや英語教師でもない。
そんな彼がここ沖縄で家族を伴いながらもどうやって生計を立てているか。
彼の職業はプログラマ。
アメリカからネット経由で仕事をもらい、成果物に対して報酬をもらう。
諸事情があり、近いうちにシンガポールに引っ越すそうだが、彼の仕事に変わりはない。
これは、彼のスキルと信頼により仕事を請け負い、出した成果物に対する報酬で生計を立て、住む所、働く所として世界の好きな所を彼が(家族と相談のうえ)自分で選んでいると言えるだろう。
英語ネイティブなのは言うまでもない。

ノマド(nomad:遊牧民)とは、IT技術の発達により、組織やオフィス(場所)に縛られない、個人商店のような新しい働き方をする人のことであり、社畜とは、自分のスキルだけでは生計がたてられず、会社様の言いなり、すがりつくような働き方をする人のことであると認識している。

報酬を払う側が責任を持って成果物を定義し、合意をもって契約を締結し、市場と照らしあわせた正当な評価と報酬で仕事を委受託する環境があれば、その結果、働く場所はどこでもよいのであり、冒頭のアメリカ人パパのような本当のノマドが実現する。
著者はまさにそれが実現している契約社会を紹介し、安易なノマド礼賛に警告を発する。
つまり、本書のノマドと社畜は表裏一体であり、この日本が世界の潮流に置いていかれている現状をあらわにし、これから迎えるであろう格差社会の訪れを示唆する。

副題にある「ポスト3.11の働き方を真剣に考える」というように働き方に対する考え方指南の本であり、同時代性であって今が旬であるが、仕事に対する考え方は時代普遍性もある。

著者は、ズバズバ言い放つが、その放言にも似た言葉の背後にあるのは、日本の実情に無関心でいられない愛情であり、海外での就労における知識と経験と考察のフィードバックであり、懐を豊かにする印税である、とは言い過ぎたが、これも契約に基づく報酬である。

ちなみに、著者はWire and Wirelessで「ロンドン電波事情」というコラムを執筆中であり、そこで私は初めて著者を知り、面白さついで、私はTwitterで@May_Romeをフォローし、本書を購入するに至ったのである。

# 1月中旬にkindle版で購入。冒頭の実例を最近知り得たのでレビュー。

2013/04/11

「統計学が最強の学問である」西内啓著

勝手に位置づけすると、「その数学が戦略を決める」と同じく経営判断、原因究明、対策などに統計学をもっと利用しましょう、というお誘いの本。

cakesの同名の連載をまとめてある。

「その数学が…」(2007年訳)では
この本のキーワードは、絶対計算、無作為抽出、回帰計算、直感(これまでの専門家)の終わり、など
と書いているが、この本も内容はそう変わらず。
また、「絶対計算」は今ならば「ビッグデータ」というバズワードで言われている大量データの統計的分析ということになるだろうか。

「その数学が…」の訳本が出てからもう5年以上も経つわけだが、今ここでこのような本が出るということは、日本で統計の活用が進んでいないことを明らかにしたように思う。だめだこりゃ。

ちなみにkindle版で購入したが、iPhoneでは図表が小さくなるので、紙かiPad位の大きさがオススメ。

2013/04/08

今日から始業式

今日は1号(♂13才)、2号(♀8才)、3号(♀5才)がそろって始業式。
珍しく入学式や卒業式に絡まない。
3人とも日々成長しているのを感じるのは、ありがたき幸せ。

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画像は、沖縄県総合運動公園で。海辺なのだが、いるのだな。

# 最近は画像がないと投稿しないクセがついてしまっているなぁ。

2013/04/01

今年のエイプリルフールには嘘をつかないことにしてみた。

エイプリルフールに何かネタを仕込んでも、あとで読むと大したことがなくて、とても恥ずかしくなったので、今年のエイプリルフールには嘘をつかないことにしてみた。
そうは言っても、大人の事情で、どうしても嘘をつかなければいけないときは、お世辞を言うことにする。
お世辞は、小さな真実の強引な拡大解釈であって嘘ではないし、言われた方は案外受け入れてくれる、と理解している。
ホントはお世辞なんか言わずに済むものなら、そうしたい。
しかし、どうしても大人の事情でお世辞を言わなければいけないときは、良心の呵責を感じないよう、本心を悟られないよう、目を見ないで言うことにする。
目を見ないでお世辞を言うと、なんとなく、どこ見てるんだこの嘘つきめ、と冷たい視線を感じるような気がする。
冷たい視線に萎縮して声もだんだん小さくなって、聞こえなくなって、そうすると、何言ってるんだ、聞こえないぞ、と怒られてしまうので、意を決して大きな声で言うだろう。
例えばこうだ。
白髪の白い鼻毛は目立たなくていいですね!
何か大事なものを失う代わりに、嘘をつかないことと真実を伝えることはまるで違うことを学ぶ気がする。
何、落胆することはない。
人生、死ぬまで勉強だ。
学ぶことに終わりはない。
終わるときは死ぬ時だ。
「何か大事なもの」が命でありませんように。

そんな1日になりそう。

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