ある晩、自分が死ぬ夢を見た。
というのは正確ではなく、その夢の中で、(周りには人がいるようだ)自分の意識が覚醒された状態から眠るように(実際夢だから寝ているんですが)だんだん遠ざかっていき、視界が狭くなり周りの音が声が聞こえないというように視覚聴覚が鈍くなり、ついにはブラックアウトした、という夢を見つつ、ああ夢だぁ、と目覚めたとき、死ぬときはこうなのかと思った。
ブラックアウトの先に残っていたのは無。自我が消え、そして世界(この世?)が消えた、ように思えた(自我が消えたことを認識していることが可笑しいですが、夢ですから)。
目で見る世界、耳で聞こえる世界、五感で感じる世界は脳が巧妙に構築した仮想世界であり、色や光や物理的な実世界とは別にあるとすれば、本当の世界は誰も知らず、知ったとしても共有できず、人が介在している限り何が正しい世界なのか判断はできない(そもそも人が介在しない世界なんて意味があるのだろうか)。
禅問答にあったかな。哲学かも。
「誰もない森の中で木が倒れたらその音は聞こえるか」
というような。長岡鉄男氏がそれについて書いていたような。
自我においては目で見る世界、耳で聞こえる世界、五感で感じる世界以外は無いのも同じで(ちょっと飛躍)、現実の世界ではあちらこちらで内戦、紛争によりたくさんの人々が死に傷つき苦しんでいるにもかかわらず、例えニュースでそれを知ったとしても感じることのない世界であり、ニュースが本当であろうが嘘であろうが自己の生命には何の影響も及ぼさない。自我の感じる世界はたかだか半径数十メートルの世界だ(知識と想像力は宇宙の果てまで)。
自我と自我の認識する仮想世界と認識されない残りの世界があり、それぞれは従属し合い、相対化され、それとは別に実世界がまた馴れ合うように存在しているのだろう。
そして、その夢で自分が消えることは世界が消えることに等しいことを悟った、つもりになっている(逆も真ですか)。
昨年、3人(友人、隣人、叔母)の親しい人が亡くなったので影響があったのかもしれないし、睡眠に入る状況を夢見ただけかもしれない、とは思う。
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