出張のついでに5年ぶりに飯田橋は神楽坂入口の飯屋「インドール」で「豚肉のにんにく焼き」を頂戴した。
焼肉と一緒に炒められて、皿の上に残されたどこにも似たものがないタレを、千切りにされたキャベツに絡めて食べるほど好きだ。
この店の代表メニューは「豚肉のしょうが焼き」だと思うが、その味は私のスタンダードとして確立していて、他の店でインドールを超えるものに巡り合ったことはまだない。
後年、私はにんにく焼きを好むようになっていて、しかし、しょうが焼きもとても美味しい。
初めて就職した1992年から4年間ほど、仕事を終えて、狭くて味気ない寮に帰る道すがら週3,4回は通っていただろうか。休日はお昼にも通っていた。
1993年の米騒動では、飲食店が軒並みタイ米に切り替えたり、ライスの値段を上げたりしている中、インドールは一度も値上げを行わなかったしタイ米を使ったこともなかった。仕入れのコスト増を店が負担したのである。
その騒動の真っ最中のある日の晩、隣で食べていたおばさんが、出されたライスを見るなり、大声で「値段も上げずに、国産米を出し続けて、あんたはエライ!」だのなんだのとご主人を大げさに褒めていたことを思い出す。たしかにそのくらい珍しいことだった。
ご主人は彼女に応える訳でもなく、黙々と中華鍋に放り込んだ肉をフランベしていた。
そして今も値上げの仕方を忘れてしまったかのようにお値段据え置き、しょうが焼きとにんにく焼きは550円、並ライス150円、興が乗れば豚汁50円を追加するのが、当時も今も変わらない定番メニューである。お客さんの数が少ない時間帯には、ご主人と一緒に店に立つおかみさんのお惣菜がつくこともある。
カウンターしかないとてもとても細長い店で、お客の出入りには、座っている方も歩く方も触れ合うのがさけられないので、双方で気を使い合うほどの幅の狭さだ。
他にお客さんがいないお昼の遅く、誰かに話を聞いてもらいたいのか、おかみさんが「隣の店が空いた時、拡張していればもっと儲かったのに…」と愚痴っているそばで、ご主人は黙々と私のオーダーのために中華鍋を振っていた。
席数は倍以上になりそうなので、そうですね、とおかみさんに相槌を打ちつつ、一方で米騒動を真正面に受け止めたご主人だからこそ、そうはしなかったのだろうなと一人で納得した。
今となっては老齢にさしかかっていると思われるご主人とおかみさんが健在だったのが何より。
神楽坂入口における晩ごはんローテーションの一角を占めていた店は他にもあって、インドールの隣のホイコーローの店は健在だったが、裏通りのオムレツカレーと焼肉の「キッチンめとろ」は無くなっていて、時の流れを嫌が応にでも感じさせる。
インドールもいつまであるかわからない。
「いつまでもあると思うな親と金」に「店」も追加したい。
こうして今でも、インドールのしょうが焼き/にんにく焼きを時々思い出す。
昼夜問わず胃袋を満たしてくれた飯屋は、私の当時のメシヤ(救い主)だったと言っても差し支えない。
2019/5/21追記
2019年4月30日をもって惜しまれつつ閉店した。
https://twitter.com/uyabin/status/1118454819327361025?s=20