私も、私の素敵な奥様も、我が家の3人の子どもたちも今も昔もクリスチャンではなく、親戚に教会関係者がいるわけでもないのだが、子どもたちがモンテッソーリ教育法を取り入れているカトリック系の幼稚園に通っていた関係で、いろいろな幼稚園の行事、例えば、聖劇、卒園式、遠足の前のお祈りなどが教会内で行われたことから、自然とその教会へは何度も足を運んだことになる。
かれこれ都合10年だ。
初めて教会の中に入ったときに感じたことを思い出してみると、警戒心が渦巻き、神父が説教や祈りを捧げるのを聞いている時、どういう所作を取ればいいのか分からない、というアウェー感は半端ではなく、緊張感を伴っていた。きっと、他の見知らぬ宗教施設を訪れる人が感じるものと同じものではないだろうか。こう、オレは取り込まれないぞ、みたいな。
ところが、何度か訪れる度に、また、神父や関係者の顔を覚えるごとに、食べられたり、噛み付かれたりすることがないことがわかるごとに、構えていたガードはどんどん下がり、最初に感じていた緊張感は今ではゼロ、オールフリー、我が家の庭のような他人の建物と言った風情で、当たり前のように存在している。
これは実は凄いことで、最初に違和感あっても、時間積分で一定の量を超えて慣れ親しんだものは、ストックホルム症候群ではないけれど、愛着が湧くようなところがある。
さて、聖劇というのは、Google日本語入力でも変換されないほどなので、知らない人も多いと思われるが、天使ガブリエルがマリアへ懐妊のお告げをするところからキリスト誕生までの物語を、年長の子どもたちが役を分担した寸劇といったところで、 幼稚園の一大イベントである。年中の頃に見た憧れ年長さんの役をゲットすることを1年も前から楽しみにしている子もいるようである。例えば、2枚目の画像はベールを被った、憧れの天使ガブリエルの役の2号(♀9才)。(2010年12月)
3枚目は、1号(♂14才)が聖劇の兵士役を行った際の画像である(この画像だけ IXY60 で撮影、2005年12月)。
かなりピンぼけだが、前日緊張で熱と嘔吐で一時はどうなるかと思わせて、当日遅刻しながら何とか間に合い、本番でセリフを言い終わった後、あくびを頻発させる瞬間を捉えたという、一部方面には歴史的価値がある画像なので、ご了解いただきたい。
ところで、1号と2号の聖劇の画像を掲載して、3号(♀6才)がないのは、公平性に欠けると思うのだが、何の事はない、3号の聖劇当日、カメラを持ってくるのを忘れてしまったわけで、ここで「人は忘れやすい動物である」ことを言い訳にするのは、使う場面が間違ってるし、そもそも親としてどうかと思う、と自分自身でも思う。
(一応、iPhoneで撮りましたけど、遠すぎて遠すぎて…)
その3号が先日無事卒園したので、足掛け10年に渡った教会という建物の中に入る機会も減りそうである。
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