この本は、佐藤氏から、政府、中央閣僚への「沖縄の対応を誤るな」というメッセージである。
ちょっと長いが引用する。
ブルブリスとの電話を終えた後、私は沖縄について猛烈に勉強したくなった。そして、沖縄関係の本を買い集め、毎日、数時間読むような生活が続いている。そこで、まず気付いたのは、沖縄には易姓革命思想(放伐思想)があることだ。これは日本人の思想的構造を理解する上での大きなパラドックスになる。南北朝時代の南朝イデオローグ北畠親房が『神皇正統記』で喝破したように、日本の国家体制の特徴は革命が起きないことである。革命が起きないことは、皇統によって担保された権威とその他の聖俗の権力が分離されているからである。この権威と権力を分離するというシステムは、寛容と多元性によって担保されている。この寛容と多元性の中に、寛容と多元性を認めない思想や革命思想も含まれている。そして、その革命思想が現実に体現されている地域が沖縄なのである。換言するならば、沖縄の思想には、日本の既存の思想を破壊する力が潜んでいる。したがって、沖縄問題は思想問題であり、対処を誤ると日本の国家体制が内側から崩壊する危険性がある。これが私の作業仮説である。(p.63 第三章 根室)外務官僚時代に赴任したロシアで国家が解体され、周辺国が民族運動の中から独立を果たす様を体験し、その体験に加え、人が民族を意識したとき命を捧げることも厭わないと説明する。
ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナーなどの道具主義者が繰り返し強調するように、民族はたかだか200〜300年の歴史しかもたないにもかかわらず、ナショナリズムを古(いにしえ)の時代から存在する、ほぼ永続的なものと勘違いす る。理論的に理解しても、人間は勘違いである民族のために命を捧げることができるのだ。 (p.419 第二十三章 復古と反復)「民族のために命を捧げることができる」を視野にいれて将来を俯瞰した時、沖縄を今のような差別的構造に組み込んだまま扱い続けると、痛いしっぺ返しを喰らうぞ、今まさにそういうリスクを抱えるているぞ、そこに気づけ、という警告書に思える。
沖縄には易姓革命が息づいていることを、著者の母親と同じ久米島出身の仲原善忠の「久米島史話」を主な題材にとき解いていく。
易姓革命とは王朝交代のない血筋を拠り所とした万世一系の思想とは対立する概念であり、Wikipedeiaから抜き出すと次の通り。
復帰前に作られた唄「時代の流れ」に「唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 …」 とあるように、「王朝」ではなく「世」と表しているが、ほんの数十年前の最近でも世の移行を受け入れていることは個人的な実感として分かる。
- 徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きる
- 前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、本来、日本で言われているような「単に前王朝の皇室が男系の皇嗣を失って皇統が断絶する」ような状況を指す概念ではない。
- 血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠
敗戦直後の荒廃した土地の整備や食料の供給を行った「アメリカ世」がだんだん横暴であることがあきらかになってきてからは、その前の「大和世」に戻ろうではないか、と団結したことに1972年の日本復帰がつながる。とは言え、再度の「大和世」も平等ということを忘れたかのようでどうも世知辛い。かといって沖縄だけでやっていくにはいろいろ資源が乏しい。そこで周囲の大国を見回してみると、中華思想、共産党支配の中国は国境周辺地域への対応を見るともっとキツそうだ。台湾は仲良くなれそうだが、対中国に備えなければならないし、国連加盟していないリスクもある。韓国は日本を敵に回しそうだ。フィリピンは気候と台風以外に共通点が見いだせない。アメリカは…相変わらず世界的に尊大だ。
というふうに考えてしまうのが易姓革命思考なのですね。
この考えは、万世一系を信奉する方には、例えば、手続き的に問題がなかったのに「押し付け」憲法論が出てくることなどから、なかなか伝わらない気がする。
ちなみに、単行本時のタイトルは「沖縄・久米島から日本を読み解く」であった。オリジナルはこの本の本質を表していたが、オリジナルのままではローカルな話題 と勘違いされて売れないと見たのか、本書のキーワードの一つである「母」を出したかったのか、海の向こうにあるという「ニライカナイ」を想起させるように しているのかは不明であるが、一見わかりにくいタイトルになった。
(2013/3/18追記)
最初の引用部分を追加
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