有名blogである極東ブログやfinalventの日記を書いている著者がこれまでの人生を振り返った自分語りの本。
数年前「finalventの日記」上で毎日のように大手新聞の社説に対し痛烈な批評を食らわせている記事に遭遇したのが強烈な印象で、しかもよく読んでみると沖縄にも住んだことがあり理解も深そうだということでブックマークに登録して巡回先としていた。
マスコミは社会を批評する立場なのだから、逆に常に批評に晒されねばならない、を率先して実行していることに感銘を受けたのだった。
もっとも、ここ最近では社説には興味が失せたようではある。
どの新聞社も社説は毎日書くものではなく、せいぜい週に1度、テーマを絞って社運をかける位の気合を込めて書いてもらうのがいいと思う。
話が逸れた。
1日1冊読むことを30年以上続けているという読書量、そのカバーする分野も宗教、国際情勢、政治、経済、文化、医療、歴史、生物、言語、IT技術と広範囲にまたがり、読書量に裏付けされた著者の知識量は半端ではなく、その知識量を背景に、現実に起こった事件、政治状況などを著者独自の一歩引いた大きなフレームで切り取り読者に提示することで、読者は新たな視点を与えられたかのような錯覚を抱く。
実際にはどんな本や記事でも、作者と読者では、知識量や理解の度合いに隔たりがあるので、真に理解するまでには至らない場合が多いと思うが、この頻繁な錯覚が著者のblogの味わい方であり、醍醐味であると思うが、それは、こちらの勝手読み、勘違いかもしれない。
その方が、本を出したというので、何を生業としているのか、どういう経緯で沖縄に住んだのか、宗教とくにキリスト教に詳しいのはなぜか。
背景を知るために購入してみた。
まず、びっくりしたのが家族持ちであったこと。
blogでは奥方や子どもたちの話が一切出て来なかったので、てっきり独身であるかと勝手に想像していた自分の洞察力を再確認してしまった次第である。
肩透かし
読み始めると、比較的若いころの話は事実や経験やその時の感情の記述が多くその分「考える」に対し掘り下げが浅く、後半はややblog調に似てくるという印象で、特に若い頃の話題、「第5章 勉強して考えたこと」を除いては、思索の追求密度が違うように思った。
これは、もしかすると著者も若い頃、特に20代の思索がそれほどまでに深くなかったことの現れかもしれない。
どんな人でも時間の経過と変わり続け、昔の自分と今の自分は別人28号であるのだから致し方ないのかもしれない。
正直言うと、著者のblogや最近のCakesでの書評などの言説に比べると案外軽くて肩透かしを食らった。
他人のしかも55年に及ぶ人生を語っているのに、軽いとはひどい言い草だが、とりあえず、人生のその都度その都度分かれ道で判断してここまで来ました、迷ったら徹底的に調べてみて、飛び込んでみて、いろいろあったけどね、若い人もこれから人生いろいろあるはずだから、まずは考えてみて、という感じを受けた。
著者の人生は肩に食い込むほど重いはずだが、それを流れるように軽く見せているのである。
山形浩生がdisるのもわからなくもない。
確信犯
肩透かしの答えは、極東ブログにあった。2013.02.24 「『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部」の次の一節を読むとそれも確信犯のようだ。
基本テーマは、「ブログを通して自分が市民である意味を考える」ということだった。違和感
この市民というのは、具体的には、私の理解では、普通の人ということである。普通の人がどう市民として生きるのか。
当初はこれを原理論的な枠組みで考えていた。が、途中、「で、それって自分が語りかけたい人に通じるの?」という疑問がわいてきた。ブログと本は違うだろう。
こんな堅苦しいブログみたいなことを本で書いても、意味ない。
本なら、もっと広い層にまで通じるように書きたい。
それと実際のところ、ブロガーとしての自分を普通の人、市民の一例の人生として見たとき、もっと、見やすい構図のほうがいいのではないかと思うようになった。たとえば、「自分語り」というような。そのほうが実感を込めて書けるし。
で、そのシフトをした。初期原稿を大幅に改稿した。
が、そうなるとそれはそれで、「うぁ、自分の人生なんなんだ」ということになった。訥々と自分語りをしても、歳寄りが自費出版でだれも読まない自伝とか警世の書を出したりするのと変わらない。
でも、そう読まれてもよいとも思った。
それを受けても、私がちょっとネガティブな印象を吐露するのにはそれなりの理由がある。
本を手にしてみると、副題には「空しさを希望に変えるために」とあるが、著者の空しさって一体なんだと思いながら読み進める。
読み始めてすぐに、著者が自分のことを「社会的には失敗者」「敗者」と表現していることに気づく。
私はそのネガティブな単語が出てくるたびに違和感を感じたのである。
本書の意図がブログに書いてあるように「普通の人、市民の一例の人生」を見せることにあるならば、それがなぜ失敗者であり敗者なのかがわからない。
私には著者の失敗者や敗者の定義がよく理解できていない。
つまり、著者は、家族もあり、仕事もあり、今までいろいろあったし今後も困難はあるだろうけど、子どもも育て、本も出版したし、インターネット界隈で自分を表現しているし、十分に報われているのではないのか、その「失敗者」や「敗者」の定義を変えるだけで、「空しさ」なんて吹き飛んでしまうのではないか、という印象がどうしても引っかり、最後まで尾を引いてしまった。
それに加え、仕事や家庭などの外的要因や持病などの内的要因に翻弄されながらも、結局のところ自分の人生を自分でコントロールし、支配しているように思える。
自分の人生を自分で支配しているということは、つまるところ、失敗どころか、生きることに成功しているのではないか、と思うが、考え方は人それぞれ、ケチをつける問題ではないのかもしれない。
そうは言っても、ところどころに唸る部分はあるのであって、例えば、海に生きる海人(ウミンチュ)にとって
「国家は海以下の存在」(p.159 第3章 沖縄で考えたこと)という洞察は、よくぞ言葉にしてくれたと思うし、
「人生の敗北者であっても、貧しい生活でも、学ぶことで人生は豊かになる」(p.284 第5章 勉強して考えたこと)はその通りだな、と納得させられる。
もっともこの敗北者というのがよくわからないのは前述のとおり。(…えっ、ハゲ?)。
人生、死ぬまで勉強。
これから
ちなみ、沖縄育ちの40代以上の年代では、「極東」と聞くと、今はFM沖縄というラジオ局の前身である極東放送や、極東の英語「Far East」からは在日米軍兵士・家族のためのTV・ラジオ局である「FEN」(現AFN)で番組と番組の間で流れていた”Far East Network, Okinawa"のナレーションを思い浮かべるだろう。
「極東ブログ」の「極東」とは、日本は「世界の端」であって中心ではないことを読者に意識させる暗喩として名付けたのではないかと思えてならないが、それはこちらの勝手読み、勘違いかもしれない。
これから10年後、私が著者の今の歳の前後、きっと今とは別人28号になった時に読み返すと、また違った感慨が浮かびそうな本であることは確かである。