2013/03/29

「考える生き方」finalvent著

55年の半生を振り返った自分語り

有名blogである極東ブログfinalventの日記を書いている著者がこれまでの人生を振り返った自分語りの本。

数年前「finalventの日記」上で毎日のように大手新聞の社説に対し痛烈な批評を食らわせている記事に遭遇したのが強烈な印象で、しかもよく読んでみると沖縄にも住んだことがあり理解も深そうだということでブックマークに登録して巡回先としていた。
マスコミは社会を批評する立場なのだから、逆に常に批評に晒されねばならない、を率先して実行していることに感銘を受けたのだった。
もっとも、ここ最近では社説には興味が失せたようではある。
どの新聞社も社説は毎日書くものではなく、せいぜい週に1度、テーマを絞って社運をかける位の気合を込めて書いてもらうのがいいと思う。
話が逸れた。

1日1冊読むことを30年以上続けているという読書量、そのカバーする分野も宗教、国際情勢、政治、経済、文化、医療、歴史、生物、言語、IT技術と広範囲にまたがり、読書量に裏付けされた著者の知識量は半端ではなく、その知識量を背景に、現実に起こった事件、政治状況などを著者独自の一歩引いた大きなフレームで切り取り読者に提示することで、読者は新たな視点を与えられたかのような錯覚を抱く。
実際にはどんな本や記事でも、作者と読者では、知識量や理解の度合いに隔たりがあるので、真に理解するまでには至らない場合が多いと思うが、この頻繁な錯覚が著者のblogの味わい方であり、醍醐味であると思うが、それは、こちらの勝手読み、勘違いかもしれない。

その方が、本を出したというので、何を生業としているのか、どういう経緯で沖縄に住んだのか、宗教とくにキリスト教に詳しいのはなぜか。
背景を知るために購入してみた。
まず、びっくりしたのが家族持ちであったこと。
blogでは奥方や子どもたちの話が一切出て来なかったので、てっきり独身であるかと勝手に想像していた自分の洞察力を再確認してしまった次第である。

肩透かし

読み始めると、比較的若いころの話は事実や経験やその時の感情の記述が多くその分「考える」に対し掘り下げが浅く、後半はややblog調に似てくるという印象で、特に若い頃の話題、「第5章 勉強して考えたこと」を除いては、思索の追求密度が違うように思った。
これは、もしかすると著者も若い頃、特に20代の思索がそれほどまでに深くなかったことの現れかもしれない。
どんな人でも時間の経過と変わり続け、昔の自分と今の自分は別人28号であるのだから致し方ないのかもしれない。

正直言うと、著者のblogや最近のCakesでの書評などの言説に比べると案外軽くて肩透かしを食らった。
他人のしかも55年に及ぶ人生を語っているのに、軽いとはひどい言い草だが、とりあえず、人生のその都度その都度分かれ道で判断してここまで来ました、迷ったら徹底的に調べてみて、飛び込んでみて、いろいろあったけどね、若い人もこれから人生いろいろあるはずだから、まずは考えてみて、という感じを受けた。
著者の人生は肩に食い込むほど重いはずだが、それを流れるように軽く見せているのである。
山形浩生がdisるのもわからなくもない。

確信犯

肩透かしの答えは、極東ブログにあった。2013.02.24 「『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部」の次の一節を読むとそれも確信犯のようだ。
基本テーマは、「ブログを通して自分が市民である意味を考える」ということだった。
この市民というのは、具体的には、私の理解では、普通の人ということである。普通の人がどう市民として生きるのか。
当初はこれを原理論的な枠組みで考えていた。が、途中、「で、それって自分が語りかけたい人に通じるの?」という疑問がわいてきた。ブログと本は違うだろう。
こんな堅苦しいブログみたいなことを本で書いても、意味ない。
本なら、もっと広い層にまで通じるように書きたい。
それと実際のところ、ブロガーとしての自分を普通の人、市民の一例の人生として見たとき、もっと、見やすい構図のほうがいいのではないかと思うようになった。たとえば、「自分語り」というような。そのほうが実感を込めて書けるし。
で、そのシフトをした。初期原稿を大幅に改稿した。
が、そうなるとそれはそれで、「うぁ、自分の人生なんなんだ」ということになった。訥々と自分語りをしても、歳寄りが自費出版でだれも読まない自伝とか警世の書を出したりするのと変わらない。
でも、そう読まれてもよいとも思った。
違和感

それを受けても、私がちょっとネガティブな印象を吐露するのにはそれなりの理由がある。
本を手にしてみると、副題には「空しさを希望に変えるために」とあるが、著者の空しさって一体なんだと思いながら読み進める。
読み始めてすぐに、著者が自分のことを「社会的には失敗者」「敗者」と表現していることに気づく。
私はそのネガティブな単語が出てくるたびに違和感を感じたのである。
本書の意図がブログに書いてあるように「普通の人、市民の一例の人生」を見せることにあるならば、それがなぜ失敗者であり敗者なのかがわからない。
私には著者の失敗者や敗者の定義がよく理解できていない。
つまり、著者は、家族もあり、仕事もあり、今までいろいろあったし今後も困難はあるだろうけど、子どもも育て、本も出版したし、インターネット界隈で自分を表現しているし、十分に報われているのではないのか、その「失敗者」や「敗者」の定義を変えるだけで、「空しさ」なんて吹き飛んでしまうのではないか、という印象がどうしても引っかり、最後まで尾を引いてしまった。
それに加え、仕事や家庭などの外的要因や持病などの内的要因に翻弄されながらも、結局のところ自分の人生を自分でコントロールし、支配しているように思える。
自分の人生を自分で支配しているということは、つまるところ、失敗どころか、生きることに成功しているのではないか、と思うが、考え方は人それぞれ、ケチをつける問題ではないのかもしれない。

そうは言っても、ところどころに唸る部分はあるのであって、例えば、海に生きる海人(ウミンチュ)にとって
「国家は海以下の存在」(p.159 第3章 沖縄で考えたこと)
という洞察は、よくぞ言葉にしてくれたと思うし、
「人生の敗北者であっても、貧しい生活でも、学ぶことで人生は豊かになる」(p.284 第5章 勉強して考えたこと)
はその通りだな、と納得させられる。
もっともこの敗北者というのがよくわからないのは前述のとおり。(…えっ、ハゲ?)。
人生、死ぬまで勉強。

これから

ちなみ、沖縄育ちの40代以上の年代では、「極東」と聞くと、今はFM沖縄というラジオ局の前身である極東放送や、極東の英語「Far East」からは在日米軍兵士・家族のためのTV・ラジオ局である「FEN」(現AFN)で番組と番組の間で流れていた”Far East Network, Okinawa"のナレーションを思い浮かべるだろう。
「極東ブログ」の「極東」とは、日本は「世界の端」であって中心ではないことを読者に意識させる暗喩として名付けたのではないかと思えてならないが、それはこちらの勝手読み、勘違いかもしれない。

これから10年後、私が著者の今の歳の前後、きっと今とは別人28号になった時に読み返すと、また違った感慨が浮かびそうな本であることは確かである。

2013/03/27

「採用基準」伊賀泰代著

必要とされている力とは?

今の時代、今の日本に必要とされている力は何か?

人間は生きているならば、奴隷のように自由を奪われていない限り、自分のことに対しては強力なリーダーシップを発揮する。
例えば、朝いつ起きるのか、から始まって、体調を推し量り、布団をどうするか、朝飯はどう、着替えはどう、などなど自分が次に何をすべきか、次々と迫ってくる雑多な事々に素早く決断し、決断に沿って行動して、1日1日を生きていく。これは自分に対するリーダーシップがあるからであり、その決断と行動の結果は自分自身に対する成果である。
ところが、その自分に対する強力なリーダーシップを有する個人個人が、何かの目標を達成するために存在する組織の一員となると、とたんにリーダーシップが発揮できなくなる。
なぜか?

元マッキンゼーのコンサルタントであり採用マネージャでもあった著者が、マッキンゼーでは将来のリーダーを必要とし、「リーダーシップ」こそが最重要な「採用基準」であったことを明かす。そのリーダーシップが今の日本に最も必要なものではないか、と自身の経験から語る。

リーダーシップとは、目的や成果達成のために、積極的に役割を引き受けることであり、企業、自治体、NPOなど、あらゆる組織に適用出来るとし、また、リーダシップを持つべきなのはリーダーがだけではなく、リーダーでない人もリーダーシップが必要だと説く。
いわゆる全員リーダーシップ論である。

全員リーダーシップ論

全員リーダーシップでは、「船頭多くして船山に上る」とならないか、リーダーだけがリーダーシップを持つべきではないか?
著者は明確にそれを否定し、いわゆる管理職はマネージャであり、リーダーとマネージャーの概念は明確に異なると指摘する。該当部分を引用する。

(p. 101 3章 さまざまな概念と混同されるリーダーシップ)
さらに混乱しがちな概念がマネージャーとリーダーです。マネージャーは管理者です。求められる業務は、部下の労務管理であり、組織内の個々の仕事の進行管理や品質管理、そして予算管理です。
三名の組織ならマネージャは不要です。管理が不要だからです。しかし三名の組織でも、成果目標があればリーダーは必要です。リーダーシップを発揮する人がいないと、目標は達成出来ません。一方、構成員の規模(人員)や仕事の領域が一定範囲を超えれば、特に成果が問われる状況ではなくても、管理職は必要となります。
マネージャーが必要なのは、成果を達成するためではなく、組織内の人数が多くなると管理が行き届かなくなるからです。この「管理のために必要な役割」と、「成果達成のために必要な役割」はまったく異なるのです。
この2つの概念が混乱するのは、多くの組織において、
  • 管理職には、管理だけでなくリーダーシップも求められている
  • 管理職以外には、管理はもちろんリーダーシップも求められていない
からです。つまり日本では、管理職というポジションとリーダーシップが結び付けられてしまっているのです。
続けてこう書く。
しかも管理職は、
  • 管理能力
  • リーダーシップ
  • プレーヤーとしての能力
のすべてを求められているにもかかわらず、管理能力とプレーヤーとしての能力が一定水準に達することで、管理職に就くことがあります。さらには、一般的な管理職研修の中身には、法令遵守(compliance)や、部下の評価・管理方法など手続き的な手順(due diligence)に関するものが多く、「リーダーとは何か」、「リーダに必要なスキルは何か」、「成果をたすためには、困難な状況の中でどのように組織を率いていくべきか」といった、リーダーシップに関するものは多くありません。
昇格基準においてもリーダーシップが軽視され、かつ、研修でもその部分が欠落しているとなれば、リーダーシップの弱い管理職が大量発生してしまうのも当然です。ところが、日本企業であっても組織の管理職には成果目標が問われます。これが不幸の源です。
不幸の源とは何か。
リーダーシップのない人に成果目標を与えると、その人は結果を出すために無謀な方法に頼ります。プレーヤーとしての自分の成功体験をメンバーに押し付けたり、根性論や精神論で乗り切ろうとする人もいます。部下や納入業者など、力の弱いものをたたいて成果をあげようとする人も出てくるし、なかには不正な方法に頼る人も出てきます。チームのメンバーにとっては、たまったものではありません。
名選手、必ずしも名監督にあらず。
しかし、このような単純なセオリーでさえ、日本の組織では気づけないし、気づいたとしても変革を起こすまでに至ってないところが多い。変革を起こせない、それこそが「リーダーシップが欠如」している表れではないだろうか。

ワインバーグのリーダシップ論

ところで、著者のリーダーシップ論は、G. M. ワインバーグの「「スーパーエンジニアへの道」のリーダーシップ論と表現は違うし、定義も違う。共通しているのは成果を出すためにはリーダーシップが必要であり、それはある一人のリーダーに頼ったものではない、ということだ。
ワインバーグの(有機的)リーダシップの定義の一つを再引用する。
リーダーシップとは、人々が力を付与されるような環境を作り出すプロセスである。
(略)
だがアーニーやフィリスやウェーバーも、驚くべき形式でリーダーシップを発揮していたのだった。彼らはマーサが、彼女にとって強力であるようなスタイルで働くのを放っておいたのである。(略) しゃべることはマーサのスタイルではなかった。そして他の連中はそのことを知っていた。だから彼らは彼女を放っておいた。これもリーダーシップなのだ。
(p.12 第一章 リーダシップとは、結局のところ何なのか)
ワインバーグは個々人が能力を発揮できるようにすることが、例えば、マーサのように皆が議論に熱中しているときには黙っているが、議論が一段落した後、核心をついたセリフで問題解決に結びつけた時、それこそがリーダーシップであり、マーサのやり方を認めた他のメンバーもリーダーシップがあったと説く。一方著者は、マッキンゼー流に積極的に役割を引き受けよ、会議で黙っているのはいないも同然であると説く。リーダシップの発揮の仕方の表現や概念は異なるが、組織は成果を出すために作られたものであり、その成果を出すために全員がことに当たり、役割を引き受けることは共通している。

和を持って尊しとなす

さて、日本には「和をもって尊しとなす」という言葉がある。この言葉は「成果」については触れていない。つまり、目的が「和」であり、何かを生み出すためのものではないと捉えられてしまう。
その言葉が作られた時代、他国からの侵略のリスクが小さい島国においては、農耕の推進や国の基盤強化の上で、協調性の欠如は明確なデメリットであり、協調性を図る概念を表したこの言葉が、国を平定するために必須であったと解釈している。
時代が流れてその「和」が組織の目標であり成果だとすると、そこで発揮されるリーダーシップは、揉め事を起こさないことや意見の統一のために発揮されるのであり、何かを生み出すことには使われているように思えない。
「和をもって尊しとなす」の概念は組織におけるリーダーシップを阻害する呪縛として機能しているのではないか。

リーダーシップから生まれた本

いずれにせよ、本書は論旨明快で読み易く、理解し易い。著者が本書の帯にある「地頭」もあり、「論理的思考力」もあるのは明確である。しかし、何より、それよりも「大切なもの」、つまり、著者が日本の危機感を自分のこととして引き受け、できるところから日本を変えようという「リーダーシップ」を発揮したからこそ本書が生まれたように思う。

(2013/3/29追記) 長いので見出しをつけた

2013/03/18

背景の画像を変更

背景の画像をバラック小屋、トタンの継ぎ接ぎ、可愛いポスト。の画像に変更してみた。思いつきとやっつけ感が漂っているし。それに何と言っても左下のポストの粋とかシャレとかユーモアに脱帽したので。

変更途中に間違ってボタンを押してしまって、ブログのデザインも変わってしまったようだ。

2013/03/15

「このブログ内を検索」欄で結果が表示されない - その4:あきらめ編

「このブログ内を検索」欄で結果が検索できないシリーズは、一旦打ち止め。
"uyabin.blogspot.com"から"uyabin.blogspot.jp"リダイレクトされてしまうにもかかわらず、コンテンツのsite指定では"uyabin.blogspot.jp"は対象とされていないためで、私の力では、今のところ手の打ちようがない。
ということでガジェットを削除した。
左上の検索欄なら検索できるので今後はこれを利用されたい。
残念。

Googleリーダも廃止とのことで、blog界隈も成長が止まっているのか(Google+のせいだという声も聞こえるが)。

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画像は猫@2012。
この画像をコントラストを強調後、Twitterのプロフィール画像に採用させてもらった。頭からスカーフをかぶった東欧のご婦人のイメージなんだが。

2013/03/13

「母なる海から日本を読み解く」佐藤優著

古代の久米島から琉球を見たとき、それは、沖縄から日本を見ることでもあり、日本から世界を見ながることにつながる。

この本は、佐藤氏から、政府、中央閣僚への「沖縄の対応を誤るな」というメッセージである。
ちょっと長いが引用する。
ブルブリスとの電話を終えた後、私は沖縄について猛烈に勉強したくなった。そして、沖縄関係の本を買い集め、毎日、数時間読むような生活が続いている。そこで、まず気付いたのは、沖縄には易姓革命思想(放伐思想)があることだ。これは日本人の思想的構造を理解する上での大きなパラドックスになる。南北朝時代の南朝イデオローグ北畠親房が『神皇正統記』で喝破したように、日本の国家体制の特徴は革命が起きないことである。革命が起きないことは、皇統によって担保された権威とその他の聖俗の権力が分離されているからである。この権威と権力を分離するというシステムは、寛容と多元性によって担保されている。この寛容と多元性の中に、寛容と多元性を認めない思想や革命思想も含まれている。そして、その革命思想が現実に体現されている地域が沖縄なのである。換言するならば、沖縄の思想には、日本の既存の思想を破壊する力が潜んでいる。したがって、沖縄問題は思想問題であり、対処を誤ると日本の国家体制が内側から崩壊する危険性がある。これが私の作業仮説である。(p.63 第三章 根室)
外務官僚時代に赴任したロシアで国家が解体され、周辺国が民族運動の中から独立を果たす様を体験し、その体験に加え、人が民族を意識したとき命を捧げることも厭わないと説明する。
ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナーなどの道具主義者が繰り返し強調するように、民族はたかだか200〜300年の歴史しかもたないにもかかわらず、ナショナリズムを古(いにしえ)の時代から存在する、ほぼ永続的なものと勘違いす る。理論的に理解しても、人間は勘違いである民族のために命を捧げることができるのだ。 (p.419 第二十三章 復古と反復)
「民族のために命を捧げることができる」を視野にいれて将来を俯瞰した時、沖縄を今のような差別的構造に組み込んだまま扱い続けると、痛いしっぺ返しを喰らうぞ、今まさにそういうリスクを抱えるているぞ、そこに気づけ、という警告書に思える。

沖縄には易姓革命が息づいていることを、著者の母親と同じ久米島出身の仲原善忠の「久米島史話」を主な題材にとき解いていく。
易姓革命とは王朝交代のない血筋を拠り所とした万世一系の思想とは対立する概念であり、Wikipedeiaから抜き出すと次の通り。
  • 徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天める)が起きる
  • 前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(わる)というのが基本的な考え方であり、本来、日本で言われているような「単に前王朝の皇室が男系の皇嗣を失って皇統が断絶する」ような状況を指す概念ではない。
  • 血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠
復帰前に作られた唄「時代の流れ」に「唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 …」 とあるように、「王朝」ではなく「世」と表しているが、ほんの数十年前の最近でも世の移行を受け入れていることは個人的な実感として分かる。
敗戦直後の荒廃した土地の整備や食料の供給を行った「アメリカ世」がだんだん横暴であることがあきらかになってきてからは、その前の「大和世」に戻ろうではないか、と団結したことに1972年の日本復帰がつながる。とは言え、再度の「大和世」も平等ということを忘れたかのようでどうも世知辛い。かといって沖縄だけでやっていくにはいろいろ資源が乏しい。そこで周囲の大国を見回してみると、中華思想、共産党支配の中国は国境周辺地域への対応を見るともっとキツそうだ。台湾は仲良くなれそうだが、対中国に備えなければならないし、国連加盟していないリスクもある。韓国は日本を敵に回しそうだ。フィリピンは気候と台風以外に共通点が見いだせない。アメリカは…相変わらず世界的に尊大だ。
というふうに考えてしまうのが易姓革命思考なのですね。
この考えは、万世一系を信奉する方には、例えば、手続き的に問題がなかったのに「押し付け」憲法論が出てくることなどから、なかなか伝わらない気がする。

ちなみに、単行本時のタイトルは「沖縄・久米島から日本を読み解く」であった。オリジナルはこの本の本質を表していたが、オリジナルのままではローカルな話題 と勘違いされて売れないと見たのか、本書のキーワードの一つである「母」を出したかったのか、海の向こうにあるという「ニライカナイ」を想起させるように しているのかは不明であるが、一見わかりにくいタイトルになった。

(2013/3/18追記)
最初の引用部分を追加

2013/03/06

「このブログ内を検索」欄で結果が表示されない - その2

 「このブログ内を検索」欄で結果が表示されないの調査の続き。検索エンジンはGoogle ブログ検索なので、わかりやすくするために、ブログ検索を開く。その画面でsite指定を"uyabin.blogspot.jp"として、猫を検索する。つまり、uyabin.blogspot.jp内の「猫」を検索しろ、で結果はNGとなった。

比較として、.jpドメインにリダイレクトされる前のオリジナルの "uyabin.blogspot.com"をsite指定すると、「猫」が含まれる記事がボコボコ出てきてOKである。

blogspotでは1年ほど前に、.comから.jpへリダイレクトされているようだ。
Googleブロク検索では、リダイレクトされる前の.jpでは、まるでデータを蓄積していないかのような挙動である。
そういえば、以前にリダイレクトに気づかずにTwitterの設定で迷ったことがあることを思い出した。

回避方法は試行錯誤中につき別途ポスト予定。

2013/03/04

「このブログ内を検索」欄で結果が表示されない

このblogの右のカラムにある「このブログ内を検索」欄がうまく機能していないようだ。
この検索は「Powered by Google ブログ検索」であるのだが、検索結果が常に「結果はありません」と表示される。
ただし、左上の検索窓では表示される。
調べてみよう。

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