2008/06/13

「魅せる会話」エドワード・デ・ボノ著の「美しい心」


魅せる会話 ― あなたのまわりに人が集まる話し方 (単行本)
エドワード・デ・ボノ(著)
住友 進(翻訳)
阪急コミュニケーションズ
2005/10/22(初版)
1,575円


極東ブログの紹介により購入。
人と会話していて、よく話が続かなくなるので(数ヶ月前社長と偶然モノレールで隣り合って実感)、続かせるような何かコツでもあれば、との淡い期待を抱いたのだが、そんな小手先のことじゃなかった。
原書タイトルは "HOW TO HAVE A BEAUTIFUL MIND" で、美しい心の持ち方になるのだろうが、それもちょっと違う気がする。
読み進めていて「美しい心」の表現にどこか引っかかりながら読み終わり、その「訳者あとがき」で翻訳者の住友氏は、本文で使われた「美しい心」の代わりに「心がきれいなひと」と書いているのに気づいた。本書の意図には鑑賞対象を感じさせる「美しい」より純粋とか真っ当さを感じさせる「きれい」が日本語としてより適切であるとことが言いたかったのではないか。
本書の要約はその「訳者あとがき」によくまとまっている(思わせぶり)。

筆者が一番重要視しているのは、以下に引用する記述群ではないか。
冒頭のp.11の記述:
話し合いや討論は、対立するエゴとエゴの戦いではなく、一つのテーマを純粋に探求する場にしなくてはならない。
筆者が開発したパラレル・シンキングを例にとったp.102の記述:
パラレル・シンキングは、議論のような「エゴを駆り立てる」「戦闘志向の」方法とはまったく違います。この方法に慣れた人は、議論という手段に戻ってしまうのは、かなり原始的なことであると自然に気づきます。
抗議行動やディベートに対するp.182の記述:
なぜわたしたちの観点は異なっているのか? 私たちの観点の本質的な違いとは何か? これらの観点の違いは、異なる価値、異なる経験、異なる情報のいずれに原因があるのか?

それは「戦い」と「探求」の違いです。
続くp.183の記述:
同じように、いつも同じ立場を繰り返すこともさほど楽しいことではありません。
新しいアイデアを出していく必要があるのです。あるテーマの疑問点についてもっと自由に語り、探求していく必要があります。会話の終わりに、話し始めたときより多くの知識をもって、双方が席を立つようにすべきです。
つまり、私の理解による本書の分かり易い目的は、
  • 他人のと会話、議論などいわゆる言葉を通じたコミュニケーションをとるときに、そのコミュニケーションを始める前より後の方がお互い高みに達しているべきであること
  • そのために知っておきたいこと、やるべきこと
のような気がする。
確かに、そうできれば「美しい心」「心がきれいな人」でいられるかもしれない。
最近も身近な例で、いい年した大人が人の失敗につけ込んでワーワー言っているのを見たりすると そんなことより解決策を提案をすべきでは なんて思ってげんなりするもんな(結局口は挟んだが)。

主張のぶつかり合いでどちらの言い分が通ったかなんて関係ない、よりよい結果を得る結論に達したか、または、その方向へ双方が主題を転換できたか、が重要だ(身近にそう感じるときがある、かもしれない)。

私の理解した明言されていない本書のもう一つの目的は
  • コミュニケーションの取り方は、心のあり方次第で変わってくるし、それはつまり生き方に等しい
  • とすると、よりよい生き方には「美しい心」が必要であり、それはコミュニケーションの取り方次第
  • そのコミュニケーションの取り方を学びましょう
か。
なので「魅せる会話」という邦題も違和感あり。

本書の内容はとてもためになるものであるとして、文章も平易であったが、ちょっと意図するところが読みにくかった。いや、大まかには分かるのだが、センテンス単位でそういうことを言いたいのか、そういう喩えか、と確信を得るのにちょっと苦労した。
また、各章は内容のレベルごとに大きな章に分けたくなるような、もう少し構造的であれば理解もし易くなるのでは。フラットすぎて、せっかくの内容を、うまく伝え切れていない気がする。まとめ直したい。

ところで、冒頭のコツは身についたのか。
自分の仕事についておもしろく話せるように、関心を持ってもらうようにしてみるつもりだ、ということであるが、仕事は通信の技術屋さんなので一般には想像し難いので話しにくいのだなぁ、通信の秘密とか守秘義務とか(社長! 何か間違っている気がするんですが)。

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